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短編

真夜中の赤はまだ消えない

深夜の横断歩道で信号を無視した男が、あの夜から止まったはずの赤信号に呼び止められ続ける話。

Genre
ホラー
Series
単発
#信号無視#事故#夜道#後悔

その交差点のことを、私は三年たった今でも地図で避けている。

夜の十一時を過ぎると、街は急に余白ばかりになる。昼間はせわしなく流れていた車も途切れ、歩道の隅には風に押された紙片がひっかかり、コンビニの灯りだけが不自然に白い。私は当時、駅前の居酒屋で厨房の仕事をしていて、終電を逃すと自転車で四十分かけてアパートへ帰っていた。

問題の交差点は、川沿いの大きな道路に出る手前にある。片側二車線、夜でもトラックがよく通る。歩行者用信号はやけに待ち時間が長く、深夜に押しボタンを押しても、こちらをからかうみたいに赤い人影を光らせたまま、しばらく変わらない。

その夜、私は苛立っていた。

店で新人が皿を割り、閉店作業がずれこみ、帰り際に元恋人から「もう連絡しないで」と短いメッセージが届いた。返信欄を開いては閉じ、自転車をこぎながら、言い訳の文面ばかり頭の中で練っていた。交差点に着いたとき、歩行者信号は赤だった。車道の信号も赤だったから、遠くの車が一台流れてくるだけに見えた。

私は停止線のところで一度足をついた。けれど、あの長い待ち時間を思い出した途端、急にばかばかしくなった。

こんな時間に、誰も見ていない。

そう思って、押しボタンにも触れず、そのままペダルを踏みこんだ。

渡りきれる、と思った。実際、半分までは余裕だった。

けれど中央分離帯を過ぎたあたりで、左から白い光が滑ってきた。信号無視だったのか、私が見落としたのか、今でも断言できない。ただ、ライトが二つ、獣の目みたいに低く並んでいて、その間に私自身の細い影がくっきり浮かび上がったのを覚えている。

次の瞬間、私は道路に転がっていた。

体より先に、自転車の前輪がひしゃげる音を聞いた。金属が泣くような甲高い音だった。車は急ブレーキをかけ、数メートル先で止まった。運転席から若い男が飛び出し、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。大丈夫ですか、と叫んでいた。私は膝をすりむき、左手のひらの皮がめくれ、肘のあたりが熱かったが、立てないほどではなかった。

そのとき、横断歩道の向こう側に、女の子が立っていた。

小学校に上がる前くらいの、小さな子だった。黄色い帽子みたいなものをかぶって、両手を体の横にまっすぐ下ろし、こちらを見ていた。夜の道路にいるには不自然なほど、じっとしていた。

私は反射的に声をかけようとした。危ない、と。こんな時間に、と思った。

だが、男に肩を支えられて一度視線を外し、もう一度向こうを見たときには、もういなかった。

事故は物損と軽傷で処理された。警察には、私が赤で渡り始めたことを正直に話した。相手の運転手も疲れていたようで、互いに青だったつもりだと、要領を得ない説明になった。結局、私の不注意が大きいということになり、修理代やら何やらでしばらく生活は苦しくなった。

それで終わるはずだった。

最初の異変は、一週間後の帰り道だった。

同じ交差点に近づくと、押しボタンも押していないのに歩行者信号が赤く点灯していた。別に珍しいことではない。そう思って止まった。夜道に車はなく、風だけが川の匂いを運んでいた。やがて信号は青に変わった。

それなのに、私は渡れなかった。

足首を、誰かに軽くつかまれたような気がしたのだ。

見下ろしても何もない。ズボンの裾が風に当たっているだけだった。気のせいだと自分に言い聞かせ、青の点滅が始まってから慌てて渡った。

道の真ん中で、背後から声がした。

「まだ赤だよ」

幼い、乾いた声だった。

振り向いたが、誰もいなかった。車道のアスファルトだけが、街灯に鈍く照っていた。

それからだった。私は夜道で、しばしばあの声を聞くようになった。

まだ赤だよ。
止まって。
見てるよ。

最初は疲れのせいにした。次は、事故のショックが残っているのだと思った。だが声は、決まってあの交差点でだけ聞こえた。しかも、信号を守っているときほど、近くなるのだ。

私は別の道を使うようにした。遠回りでも構わなかった。それで数か月は穏やかだった。仕事も変え、酒の量も減らした。元恋人の連絡先も消した。あの夜のことを、自分なりに片づけたつもりでいた。

ところが、冬の終わり、財布を落として終電に乗れず、久しぶりにあの道を通ることになった。

日付が変わるころで、空気は濡れた布みたいに冷たかった。遠くで救急車の音が細く伸びていた。交差点の手前まで来たとき、私は思わず足を止めた。歩行者信号は青だった。押しボタンのランプも消えている。なのに、横断歩道の向こうに、あの子が立っていた。

今度ははっきり見えた。

黄色いのは帽子ではなく、ランドセルカバーだった。黒いランドセルを背負っている。髪は肩でそろい、白い靴下が夜の中で妙に明るかった。顔はよく見えない。街灯の影になっているのに、目だけがこちらを見ているのがわかる。

私は寒さとは別の震えを感じた。

「……こんな時間に、何してるの」

返事はなかった。ただ、その子は右手を上げて、歩行者信号を指さした。

青だった。

次に、その指がゆっくりと車道の方へ移った。

私はつられて顔を向けた。道路はがらんとしている。何も来ない。再びその子を見ると、今度は私を指さした。責めるでもなく、叱るでもなく、ただ順番を示すみたいに。

信号。
道路。
私。

そこで、胸の奥にひどく冷たい理解が落ちてきた。

あの夜、私が見たのは「危ない子」ではなかったのだ。先に渡っていた誰かだったのだ。私がライトに気を取られ、道路に転がったその先で、本当に車とぶつかったのは――。

記憶は途切れている。警察も運転手も、私の怪我ばかり気にしていた。救急車の音が遠くから近づいてくるまで、私は歩道に座らされていた。そのあいだ、何を見ていたのか、何を見落としたのか。

横断歩道の白線の上に、黒いしみのような影がひとつ、じわりと浮かんだ。子どもの形をしていた。

「ごめん」

声に出した瞬間、その子の首がほんの少しかしいだ。許すとも責めるともつかない仕草だった。

「ごめん、気づかなかった」

赤い人影が、カチ、と鳴って点灯した。

私ははっとして信号を見た。いつ青から変わったのかわからない。さっきまで無音だったはずの車道の向こうから、白いライトが二つ、まっすぐこちらへ近づいてくる。あの夜と同じ角度、同じ速さだった。

足がすくんだ。動けない。

そのとき、背中を小さな手で押された。

強くはない。けれど確かな力だった。私はたたらを踏んで一歩後ろへ下がり、歩道の縁石に尻もちをついた。直後、トラックが風を裂いて通り過ぎた。あと半歩遅ければ、私の膝を持っていかれていたと思う。

見上げたとき、向こう側にはもう誰もいなかった。

それ以来、声は聞こえなくなった。

私はあの交差点を通るたび、必ず押しボタンを押し、青になるまで待つ。たとえ夜中で車が一台もいなくても、誰も見ていなくても、待つ。待っているあいだ、川風にまじって、ランドセルの金具がかすかに鳴るような気がすることがある。けれど振り返らない。

先月、その交差点の脇に小さな花束が供えられているのを見た。雨に濡れた透明な包装の内側で、黄色いリボンだけがやけに新しかった。私はそれを見て、やっと知った。三年前のあの夜、あそこでは私の事故とは別に、下校中の女児が車にはねられて亡くなっていたのだと。新聞の片隅にも載らなかった、小さな記事だった。

私が忘れていただけで、赤はずっと、あの場所に残っていたのだ。

昨日も仕事帰りにその前を通った。信号は赤で、道路は静まり返っていた。私は一人で停止線に立ち、変わるのを待った。しばらくして、隣に小さな気配が並んだ。

目だけ動かすと、白い靴下のつま先が見えた。

青に変わる。

私は動かない。

すると、すぐそばで、あの乾いた声がした。

「えらいね」

子どもが褒めるにはあまりに古びた声で、私は笑うことも泣くこともできなかった。

そのまま顔を上げたときには、もう誰もいない。横断歩道の白だけが夜に浮いている。私はそれを一歩ずつ渡りながら、たぶんこれから先もずっと、誰もいない赤に止められ続けるのだろうと思った。

止まるたび、見えない手が一人分、私の袖を引く。

そしてきっと、そのおかげで私はまだ、生きている。