短編
宛先のない返事
駅の遺失物係で働く女が、差出人のない手紙を通して、長く返せなかったひとつの別れに言葉を与える物語。
春の終わり、私の勤める駅では、忘れ物がいちばん増える。
傘、定期入れ、片方だけのイヤホン、買ったばかりの文庫本。急いでいる人ほど、手から何かをこぼしていく。遺失物係の窓口に座って三年になるが、落とし物というのは、持ち主の性格よりも、その人のその日の心の重さをよく表すのだと知った。几帳面な人でも恋をしていれば切符を失くすし、だらしない人でも大切な場面では財布をしっかり握っている。
だから、封のされた手紙が遺失物として届いたとき、私はそれを妙に気にした。
薄いクリーム色の封筒だった。切手はなく、宛名もない。裏返しても差出人の名前はなかった。駅員の若い佐伯くんが、ホームのベンチに置かれていたものを拾ってきたのだという。
「これ、どう扱えばいいですかね」
「現金でも貴重品でもないけど、書類扱いかな」
「開けるわけにもいかないし」
「もちろんだめ」
そう言って受領箱に入れたのに、私は一日じゅう、その封筒の存在を意識していた。
宛先のない手紙など、出しようがない。ならば、これは誰かに渡すためのものではなく、書くためだけに書かれたのかもしれなかった。言葉はときどき、相手のためではなく、自分が沈まないために書かれる。
窓口が閉まる夕方まで、受け取りに来る人はいなかった。
帰り際、受領箱を施錠しようとして、私はふと封筒の角に小さな滲みを見つけた。雨か、汗か、それとも涙か、そんなことはわからないのに、その薄い輪郭だけで胸がざわついた。
その夜、私のアパートの郵便受けにも、一通の手紙が入っていた。
白い封筒。切手なし。宛名は私の名前だけ。住所は合っている。けれど差出人はない。
部屋に上がってしばらく眺めてから、私は封を切った。
中には、便箋が一枚。
「あなたは、返事を書かなかったことを、まだ覚えていますか」
それだけが書かれていた。
息を止めたまま、私は台所の椅子に座った。返事を書かなかったこと。そう言われて思い出す相手は、一人しかいない。
高校のころ、私には葉山という友人がいた。無口で、数学だけが異様にできて、昼休みにはいつも校舎裏の古い桜を見にいくような人だった。卒業の少し前、彼は遠くへ引っ越すことになり、私に手紙をくれた。今ならきちんと読める気がする、というようなことが書いてあった。けれど私は読んだあと、返事を書けなかった。何を返しても遅すぎる気がして、何を書いても軽くなる気がして、そのまま時間だけが経った。
それから二年後、共通の同級生から、葉山が病気で亡くなったと聞いた。
返事を書かなかったことを、私はたしかに覚えていた。覚えているというより、そのことだけが、生活の底に沈んだ小骨みたいに残っていた。
翌朝、駅に行くと、例の封筒はまだ受領箱にあった。私はそれを見ないふりで帳簿を開いたが、ペン先が紙の上で止まったままだった。
昼過ぎ、初老の女性が窓口に来た。忘れ物の問い合わせではなく、少し困ったように周囲を見回している。
「ここで、手紙の落とし物って預かっていただけるんでしょうか」
私は顔を上げた。
「ええ、場合によりますが」
「昨日、息子がこの駅で手紙をなくしたかもしれなくて」
心臓が小さく脈打った。
特徴を聞くと、クリーム色の封筒、宛名なし。間違いなかった。私は規則どおり、本人確認が必要だと伝えた。女性は困ったように笑った。
「本人、来られないんです」
「ご事情が?」
「ええ。病院にいまして。歩けないわけじゃないんですが、気持ちの具合が悪くて」
女性は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。息子は三十代の終わりで、長く引きこもっていたこと。最近になって少しずつ外に出られるようになり、昨日は一人で電車に乗ったこと。けれど帰宅してから、鞄に入れていたはずの手紙がないとひどく取り乱したこと。
「誰かに渡す手紙だったんですか」
「いえ、たぶん、渡す相手はいないんです」
「それでも大事なものなんですね」
「そう思います。あの子、謝りたい人がいたらしいんです。でも、もう会えない相手みたいで」
私は、喉の奥がわずかに痛くなるのを感じた。
規則からすれば、その場で渡すことはできなかった。女性にもそう説明した。すると彼女は、責めるでもなくうなずいた。
「わかっています。ただ、ここにあると知れただけでいいんです。あの子に伝えます」
「ご本人が来られるようなら、預かっていますと」
「ありがとうございます」
女性は深く頭を下げて帰っていった。窓口のガラスに映る自分の顔が、いつもより少し老けて見えた。
その日の帰り道、私は文房具店に寄って、便箋と封筒を買った。家に戻ると、机に白い封筒がもう一通届いていた。今朝と同じ差出人のない手紙だった。
「会えない人にも、返事は書けます」
私は笑いそうになった。誰がこんなことをしているのか、見当もつかない。気味が悪いはずなのに、不思議と嫌ではなかった。まるで、ずっと閉じたままにしていた部屋の窓が、外から静かに叩かれているようだった。
夜のあいだ、私は便箋を前に何度もペンを置き、また持ち上げた。葉山へ。名前を書くだけで、胸の奥の古い水が揺れた。
書きたかったことは、案外単純だった。
あなたの手紙をちゃんと読んだこと。
返事を書かなかったのは、どうでもよかったからじゃないこと。
あのときあなたが校舎裏の桜を見ていた理由を、今なら少しわかる気がすること。
人はきれいなものを見ているときほど、失くすのが怖くなること。
あなたがいなくなったあと、私はたぶん、その怖さから目を逸らしていたこと。
そして最後に、返事が遅くなってごめんなさい、と書いた。
書き終えるまでに三時間かかった。便箋は二枚になったが、それでも足りない気がした。けれど足りなさまで含めて、これが返事なのだと思った。
宛名は書けなかった。差出人として自分の名前だけを書いた。
翌日、その手紙を鞄に入れて駅へ向かった。勤務中に私用の手紙をどうこうするつもりはなかった。ただ、持っているだけで少し姿勢が変わる気がした。
昼過ぎ、例の女性が、今度は息子を連れて現れた。
痩せた男だった。髪は短く整えてあるのに、目だけが何年も部屋の薄暗さに慣れてしまった人の目をしていた。窓口の前で、彼は何かを言いかけて、飲み込んだ。代わりに女性が一歩下がった。
「本人です」
私は手続きに必要な確認をした。男は震える指で保険証を差し出した。受領箱から封筒を取り出して見せると、彼の肩がわずかに落ちた。安堵というより、やっと自分の息が戻ってきたような動きだった。
「間違いありませんか」
「はい」
受取書に署名するあいだ、私は彼の手元を見ないようにした。けれど彼が封筒を胸の前に抱える仕草だけは、目に入ってしまった。
手続きが終わっても、彼は去らなかった。何か言うべきか迷っているのが伝わってきた。やがて、窓口の下の小さなスリット越しに、かすれた声が落ちてきた。
「これ……出す手紙じゃないんです」
「そうなんですね」
「書いて、持ってるだけのつもりでした。でも、電車に乗ったら、急に怖くなって」
「怖く」
「謝っても、もう遅い相手だから」
私は一度だけ、まっすぐ彼を見た。
「遅くても、書いたことはなくならないと思います」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、書かなかったことよりは、ずっと形が残ります」
自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出た。彼はしばらく黙って、それから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼らが去ったあと、窓口の時計を見ると、まだ午後三時だった。いつもの駅のざわめきが、今日は少し遠く聞こえた。
その夜、郵便受けにはもう白い封筒は入っていなかった。
代わりに、私は自分の書いた葉山への手紙を持って、川沿いのポストまで歩いた。投函口の赤は、夕暮れの中で妙にあたたかく見えた。宛先のない手紙を入れるのは、郵便制度に対していささか不誠実かもしれないと思ったが、途中で引き返す気にはならなかった。
もちろん、その手紙が葉山に届くわけではない。
どこかの仕分けセンターで困らせるだけかもしれない。
あるいは差出人の私に戻ってくるかもしれない。
それでも、私は投函した。
細い金属の口を通って、封筒が内側へ落ちる音がした。その、あまりに小さな音を、私は長いあいだ待っていた気がした。
数日後、私の部屋に一通の返送郵便が届いた。予想どおり、宛先不明で戻ってきたのだ。封筒の表に押された赤い印字を見て、私は少しだけ笑った。世界は案外、律儀にできている。
私はその手紙を捨てなかった。引き出しのいちばん上にしまった。
返事は届かなかったが、返したという事実だけが、静かに残った。人は何かを取り戻して前へ進むのではなく、取り戻せないものに名前を与えて進むのかもしれない。
春の終わり、駅ではまた忘れ物が増えている。
私は今日も窓口に座り、傘や定期入れや文庫本を受け取る。手からこぼれたものは、持ち主が名乗り出れば返せる。けれど、言えなかった言葉や、書かなかった返事は、たいてい持ち主のほうが取りに来ない。
それでも、と私は思う。
遺失物には保管期限があるが、言葉には、たぶんない。