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短編

返却口に名前を入れる

夜の図書館で返却本を整理していた司書補が、返却口には本ではなく名前が返されていることを知る。

Genre
ホラー
Series
単発
#図書館#忘却#夜#名前#静かな恐怖

市立図書館の返却口は、建物の北側、街灯の届かない壁に埋め込まれている。

昼間に見ればただの金属の口だが、閉館後にひとりで近づくと、そこだけ建物に喉があるように見えた。投函された本が落ちるたび、奥で鈍い音がする。その一拍遅れた響きが、私は昔から苦手だった。

改修工事が終わってから、私は夜の整理当番を任されるようになった。非常勤で、他の職員が帰ったあと、返却口の本を回収し、消毒台に並べ、貸出履歴の仮照合だけして帰る。誰にも会わない仕事だった。

仕事自体は単純だ。台車を押し、返却口の裏蓋を開け、落ちている本を一冊ずつ拾う。濡れていないか、破れはないか、挟み込みはないか。古い癖で、私は必ず最後のページまで親指でぱらぱらめくる。何かが挟まっている気がしてしまうのだ。

その夜、いちばん下に薄い詩集があった。

灰色の布張りで、題字はもう掠れている。蔵書印はあるのに、バーコードがない。いつの時代の本なのかわからないほど古い作りだった。背を開くと、紙の匂いより先に、かすかな湿気の匂いがした。雨のあとの土間のような、冷たい匂いだった。

最後の見返しに、貸出票が貼られていた。今は使われていない紙の貸出票だ。行ごとに名前が並び、返却日が丸い朱印で押されている。

けれど、借りた日の欄には何もなく、返した日の欄にだけ、名前が並んでいた。

返却者
三浦栄子
今西忠
羽鳥加代
——

妙な書式だと思った。誰かのいたずらか、廃棄予定本の混入だろう。私は詩集を「要確認」に分けた。ところが翌晩、また同じ詩集が返却口のいちばん下にあった。

閉館後の図書館は音が少ない。空調の息、遠くの冷蔵庫の唸り、棚のあいだから時々きしむ木の音。その中でページをめくる自分の指先だけが妙に生々しい。

貸出票には、前夜にはなかった名前が一つ増えていた。

佐伯直人

返却日の印は押されていない。鉛筆で薄く書かれているだけだった。私は事務室に戻り、利用者台帳の古いデータを開いた。個人情報の整理で削除されたはずの旧台帳が、一部だけサーバの片隅に残っている。

三浦栄子。死亡により登録失効。
今西忠。転居、のち家族より利用停止。
羽鳥加代。死亡。
佐伯直人。死亡。

偶然にしては、揃いすぎていた。

そのとき、返却口のある北側の壁の向こうで、ごとり、と本が落ちる音がした。

時計を見ると、午前零時を回っていた。閉館して四時間も経っている。誰かが返しに来る時間ではない。けれど規則では、投函があれば回収しなければならない。私は台車を押し、北側へ向かった。

ガラス扉に自分の姿が映っていた。青白い蛍光灯に照らされ、肩から下だけが妙に濃く見える。顔はぼやけて、誰か別の職員が中にいるようだった。

返却口の裏蓋を開けると、本は一冊も落ちていなかった。

代わりに、細長い紙片が入っていた。貸出時のレシートに似ている。指でつまむと、紙は冷たく湿っていた。

返却受付
お名前を確認のうえ、書架へお戻しください

その下に、手書きの名前がひとつ。

佐伯直人

私は紙を持ったまま立ち尽くした。背後の書架のどこかで、こつ、と木を叩く小さな音がした。振り返ると、郷土資料の棚のあたりが、わずかに暗い。通路灯はついているのに、その一角だけ光が沈んで見えた。

こつ。
こつ。
こつ。

誰かが内側から棚板を叩いているような、遠慮がちな音だった。

私は紙を胸の高さに持ち上げ、乾いた声で名前を読んだ。

「佐伯直人さん」

すると音は止んだ。代わりに、棚の奥で紙を一枚めくるような、さや、という音がした。気配だけが、元の静けさへ戻っていく。そこにいるはずのものが、正しい場所に収まった。そんな感じがした。

次の日から、返却口には本ではなく、時々、名前だけが落ちるようになった。

紙片に書かれた名前を読む。すると館内のどこかで小さな音がして、何かが納まる。利用者台帳で調べれば、名前の主はみなこの数年のあいだに死んだ人だった。あるいは、ひどく長く行方の知れない人。町から、家から、会話から、少しずつ消えていった人たち。

図書館は、返された名前を受け取っているのだと、私は思うようになった。

本を借りるように、人は町に居場所を借りている。声をかけられ、思い出され、誰かの記憶に置かれているあいだだけ。返却口は、その期限の切れた名前を飲み込み、書架のどこかへ戻している。

そう思うようになってから、私は北側の壁を避けて歩けなくなった。帰る前に一度は返却口の前に立ち、今日は誰が戻ってくるのかと耳を澄ますようになった。

その夜、詩集は三度目に現れた。

最後の見返しに貼られた貸出票は、もうほとんど名前で埋まっていた。見覚えのある近所の古書店主、閉館前によく新聞を読みに来ていた老人、小学校のころ夏休みに通っていた友達の母親。みな返されたあとだった。

いちばん下の行に、新しい名前があった。

穂村文江

母の名だった。

私はその場で息を止めた。母は七年前に病院で死んだ。読書家ではなかったし、この図書館の利用カードも作っていない。それなのに、名前は母の癖のある丸い字に似た筆圧で、はっきり書かれていた。

そのとき、返却口の向こうで、ごとり、ともう一度音がした。

私は裏蓋を開けた。今度は紙片が二枚落ちていた。上の一枚には、母の名。下の一枚には、まだ見てはいけないと思いながら、目がすべった。

私の名前が書かれていた。

穂村澪

喉の奥が冷たくなった。何か言わなければならない気がした。けれど何を言えばいいのかわからない。返却期限を過ぎました、でしょうか。受領しました、でしょうか。そんな事務的な言葉では足りない気がした。

背後の館内で、あちこちの棚から、こつ、こつ、と小さな音が鳴り始めた。郷土資料、文学全集、児童書、辞典。声にはならない気配が、戻るべき場所を待っている。

私は先に、母の名前を読んだ。

「穂村文江さん」

音がひとつ、二階の閉架書庫のほうへ遠ざかった。胸の中の母の顔が、少し薄くなった。病室の窓辺で笑った輪郭が、曇ったガラスの向こうへ退くみたいに。

怖くなって、私は自分の頬をつねった。痛みはあった。夢ではない。夢でなくて、いっそう悪かった。

紙片には、注意書きが増えていた。

お名前を確認のうえ、必ず声に出してお読みください
未整理資料は館内に残ります

棚を叩く音が近づいてきた。私は自分の名前の紙を握りしめたまま、事務室へ逃げ込もうとした。だが自動扉は閉館設定のまま、内側からは重く、押しても半分しか開かなかった。

その隙間に、冷たい図書館の匂いが流れ込んでくる。紙と糊と、長く閉ざされた場所の匂い。

私は急に、今日の昼間のことを思い出せなくなっているのに気づいた。誰と話したか。何を食べたか。職員室で私の向かいに座る主任の顔。思い出そうとすると、棚の奥にしまわれた本の背のように、みな同じ色へ揃ってしまう。

返される、と思った。

本ではなく、名前が。名前ではなく、私のいた場所が。

私は泣きそうになりながら、紙片を細く折り、ポケットに押し込んだ。読まなければいいのだと思った。声にさえ出さなければ、私はまだ貸出中でいられる。

そのまま裏口から逃げるように帰った。

翌朝、出勤すると、事務室の職員たちが私を見て少し困った顔をした。受付台帳を抱えた主任が、気まずそうに言う。

「すみません、見学の方ですか。開館前でして」

冗談だと思って笑おうとしたが、誰も笑わなかった。私の机の上には別の人の名札があり、私がいつも使っていたマグカップはなくなっていた。ロッカーの番号も、思い出せなかった。

利用者カードを作るカウンターのガラスに、自分の顔が映った。昨夜より少し薄い。輪郭の内側に、書棚の影が見える気がした。

ポケットの中で紙片が湿っている。取り出さなくても、そこに私の名があるとわかる。

北側の壁の向こうで、ごとり、と音がした。

今日も何かが返ってきたのだ。あるいは、まだ返されずに残っている。

私は職員たちの横を通り、誰にも呼び止められないまま北側へ向かった。返却口の前に立つと、金属の口は静かに半開きで、こちらを待っていた。

中をのぞくと、薄い詩集が一冊、きちんと揃えて置かれていた。最後の貸出票のいちばん下だけが空欄になっている。

その余白に、私の字で名前を書くための場所が、まだ残っていた。