短編
晴れた日に返す傘
雨の夜に借りた一本の傘を返そうとするたび、貸してくれた店だけが街の記憶からこぼれ落ちている。
四月の終わり、雨は夜になってから急に強くなった。
残業で遅くなった帰り、改札を出たところで傘の骨がひしゃげた。駅前の風はいつも余計な方向から吹く。コンビニまでは走れば一分だが、その一分で靴下まで濡れるのがわかる雨脚だった。
どうしたものかと見回したとき、階段脇の薄暗い場所に、小さな店の灯りが見えた。合鍵と靴修理の看板が、雨で滲んでいた。ふだんそこに店があった記憶はなかったが、急いでいたので不思議にも思わなかった。
軒の下には傘が十本ほど立てかけてあり、店番の女の人が、濡れたエプロンのままこちらを見た。
「折れましたか」
ひしゃげた傘を持ち上げると、女の人は小さく笑った。
「それはもうだめ。こっちを使ってください」
差し出されたのは、紺色の古い長傘だった。持ち手の木が手に馴染むくらい使い込まれているのに、布地はしっかりしていた。
「買います」
「いいえ、貸すだけ」
女の人は、傘を渡しながら言った。
「晴れた日に返してください」
「明日でも」
「明日が晴れたら、明日。雨なら、その次の晴れた日」
妙な言い方だった。雨の日に返してはいけない理由でもあるのかと思ったが、女の人はもう折れた傘の骨を指先でつまんでいた。
「約束ですよ」
私はうなずいて、傘を開いた。開くと、雨の音がひとつ遠くなる。振り返ったとき、女の人はすでに俯いて、壊れた傘のねじを見ていた。
次の日は曇りだった。その次は昼から雨で、さらにその次は、朝だけ晴れていたのに退勤時にはまた降っていた。借りた傘は会社のロッカーに立てかけたまま、私は何度か駅の階段脇を見たが、店は見つからなかった。
合鍵屋くらい、見落とすはずがない。
そう思って、晴れた土曜日にわざわざ駅まで出た。ところが、階段脇にあったのは飲料の自販機と、古びた掲示板だけだった。壁には四角く色の違う跡があり、何かが長く貼られていたように見えたが、店の名残と呼ぶには頼りなかった。
私は周囲を一周して、近くのたばこ屋で尋ねてみた。
「あの、ここに合鍵屋ありませんでしたか」
たばこ屋の店主は新聞を畳み、眼鏡の上から私を見た。
「合鍵屋? ここらへんにはないよ」
「階段の横あたりに、小さい店が」
「ずっと自販機だねえ」
言い切られてしまうと、こちらの記憶のほうが弱くなる。私は曖昧に礼を言って、その場を離れた。
それでも傘は手元にあった。紺の布地、木の持ち手、石突きの細かな擦り傷。現物がある以上、借りた出来事まで消えるわけではない。けれど、どこへ返せばいいのかわからない。
そのうち梅雨に入った。私はなぜかその傘を使えなかった。ビニール傘を買い足して、紺の傘は玄関の隅に置いたままにした。雨のたび、視界の端にその持ち手が見える。返せない約束は、物の重さと別の仕方で部屋に居座る。
七月の半ば、部屋の片づけをしていたとき、傘の留め具の裏に小さな白い糸が見えた。ほつれかと思って引くと、細長い紙片が挟まっていた。レシートの裏を切ったような紙で、青いインクでこう書かれていた。
――雨の日は、みんな急いでいるから。
たったそれだけだった。
私はしばらく紙を指に載せたまま、意味を考えた。考えてもよくわからなかった。ただ、あの女の人の声で読まれると、少しだけ意味がある気がした。
八月のよく晴れた日、私はその傘を持って駅へ行った。階段脇の自販機の横、壁の色が違う場所に立てかけ、紙片をポケットに入れたまま、しばらく離れたところから眺めた。盗まれるかもしれないと思ったし、忘れ物として処理されるかもしれないとも思った。それでも、返すならここしかなかった。
三十分ほどして、制服姿の女子高生が走ってきた。空はまだ明るいのに、遠くで雷が鳴っていた。彼女はスマートフォンで天気を確かめるように空を見上げ、それから壁際の傘に気づいた。
少しためらって、手を伸ばす。
私は思わず近づきかけて、足を止めた。
女子高生は傘を持ち上げ、留め具のあたりを見た。何か読んだようにも見えたが、表情まではわからない。やがて彼女は傘を開かず、そのまま胸の前に抱えて、階段の上を見た。誰かに会釈するみたいに、ほんの少し頭を下げた。
その瞬間、ひどく場違いな音がした。金属の、小さな擦れる音。合鍵を削る機械のような、細く乾いた響きだった。
振り向いても、そこには自販機しかない。
女子高生はもう傘を差していた。降りはじめた雨の中へ、紺色が一つ、駅前の人混みにまぎれていく。古い傘なのに、遠くから見ると新品みたいに輪郭がはっきりしていた。
その夜、帰宅してから玄関を見た。いつもの隅は空いていた。代わりに、靴箱の上へあの紙片を置く。雨の日は、みんな急いでいるから。
それ以来、晴れた日に駅を通るたび、私は階段脇を少しだけ見る。自販機の横には何もない日が多い。けれど、ときどき誰かが立ち止まり、何もない壁に向かって短く礼をするのを見かけることがある。
見間違いかもしれない。
それでも先月、よく晴れた夕方に、若い男が紺色の傘を壁に立てかけて去るのを見た。私は声をかけなかった。約束の返し方は、たぶん借りた人ごとに違う。
男がいなくなったあと、風もないのに傘が少しだけ揺れた。
そして次の瞬間には、そこにはもう、自販機の影しかなかった。