短編
三〇二号室の留守番電話
誰も住んでいないはずの隣室で鳴る留守番電話が、まだ起きていない出来事を静かに録音しはじめる。
春の終わりに、私は川沿いの古い団地へ越してきた。四階建ての、外壁の白さだけが年季の深さを余計に目立たせる建物だった。駅から遠く、夜になると車の音もまばらで、風が吹くたびに共用廊下の手すりが小さく鳴った。
三〇一号室。独りで暮らすには十分で、家賃は安かった。安い理由は、前の住人が半年と持たずに出ていくことだと、不動産屋は笑いながら言った。日当たりが悪いからでしょう、と。私は笑い返して鍵を受け取った。
最初の一週間は、何もなかった。
異変に気づいたのは、二週目の火曜日の夜だった。時計が二時十七分を指した頃、隣の三〇二号室から、電話の呼び出し音が一度だけ聞こえた。古い固定電話特有の、乾いた電子音だった。直後に、カチリと機械の応答する音がした。留守番電話だ、と思った。
三〇二号室は空室のはずだった。
引っ越しの日、廊下で会った管理人の坂口さんがそう言っていた。去年の秋から誰も入っていない、と。私は聞き間違えたのかと思ったが、翌日の昼にポストを見ると、三〇二の名札は外されたままで、チラシだけが細く差し込まれていた。
その夜も、二時十七分に一度だけ電話が鳴った。そして留守番電話が応答した。
壁に耳を当てると、かすかな再生音が聞こえた。男の声だった。くぐもっていて、言葉の輪郭は崩れていたが、妙に丁寧な話し方だけはわかった。
「……母さん、また出なかったね。いや、それでいい。もう、出なくていいんだ」
そこで録音は切れたらしい。すぐ後に、テープの巻き戻るような低い音が続いた。
翌朝、私は坂口さんに訊いた。三〇二号室に電話なんて残っていますか、と。
坂口さんは植え込みに水をやりながら、しばらく考える顔をした。
「ああ、電話ね。昔はあったかもしれないけど、今は線も切ってあるはずですよ」
「でも、夜に鳴るんです」
「隣から?」
「留守番電話みたいな音もします」
坂口さんはじょうろを止めたが、困ったように笑っただけだった。
「この建物、音が回るんです。上か下の部屋かもしれない」
そう言われると、そうかもしれないと思えた。古い建物ではよくあることだ。私は納得したふりをして部屋に戻った。
けれど、その晩、録音された声ははっきり私の部屋のことを話した。
電話はまた一度だけ鳴り、留守番電話が応答した。私は壁際に座り込み、息を止めて聞いた。
「いま、隣でコップを置いたでしょう」
そのとき私は、台所で麦茶の入ったコップを流しに置いたばかりだった。指から水滴が垂れて、足元の床に小さな輪を作っていた。
声は少し笑ったように聞こえた。
「そうやって音を立てる人だった。前の人も、その前の人も」
翌日、私は仕事を休んだ。理由を訊かれても、うまく答えられなかった。昼の明るいうちに三〇二号室の前へ立った。ドアノブを回してみたが、当然開かなかった。郵便受けの隙間から中を覗くと、暗くてよく見えない。ただ、部屋の奥に小さな赤い点がひとつ見えた。機械の待機ランプのような、瞬きもしない赤。
その夜、私は二時十七分の少し前から、廊下に出て待った。団地じゅうが眠りきった静けさの中で、蛍光灯だけが白く唸っていた。やがて、三〇二号室の内側からではなく、確かに室内のどこかへ向けて、電話の音が一度だけ鳴った。
私は反射的にノブを握った。開くはずがないと思っていたのに、鍵は掛かっていなかった。
部屋の中はひどく冷えていた。窓は閉まっているのに、押し入れの奥から夜気がしみ出してくるようだった。畳は日に焼けて、家具は何もない。なのに六畳間の中央にだけ、小さな電話台が残されていた。黒い固定電話が一台。液晶には数字も文字もなく、ただ赤いランプだけが点いていた。
受話器の横のボタンに「再生」とある。私はしばらく見つめ、指先で押した。
最初はザーッという擦れた音だけだった。次に、硬い靴底が廊下を歩く音。金属のきしむ音。鍵が回る音。
それから、私の声がした。
「開けるな」
息が止まった。録音された私は、ひどく小声だった。喉を締めつけられたような、掠れた声。
「もし聞いてるなら、受話器を取るな。返事をするな。空いた部屋は、呼び出し音の数だけ増える」
録音の中で、遠くに電話が鳴った。一度だけ。
私の声が続けた。
「最初は三〇二だった。次は三〇四。名前が消える。荷物が消える。思い出した人から順番に、そこに住んでいたことまで薄くなる。だから——」
そこで録音はぶつりと切れた。
背後で、共用廊下の蛍光灯が明滅した。私は飛び上がるほど驚いて振り返った。開け放したままの玄関の向こうに、誰もいない廊下が見えた。その奥、三〇四号室のポストがちょうど見える位置にあった。昨日まで貼ってあった宅配便の不在票がなくなっていた。名札も、最初から何も入っていなかったみたいに空だった。
私は電話機の電源コードを探した。壁のコンセントに刺さっているはずの線は、途中で切れていた。切断面は古びて茶色く、何年も前からそうであったように乾いていた。それでも赤いランプは消えない。
受話器から、かすかな呼吸のようなノイズが漏れた。
私は後ずさりし、再生ボタンの隣にある「消去」を押した。何度押しても手応えだけで、何も変わらなかった。ランプは点いたまま、耳を近づけると微かに廊下の音を拾っていた。風。蛍光灯。遠い足音。いまの私の息。
逃げるように自分の部屋へ戻り、鍵を二重に掛けた。そのまま朝まで起きていた。二時十七分を少し過ぎた頃、隣から留守番電話の応答音はしなかった。
代わりに、私の部屋の電話が鳴った。
固定電話など契約していない。引っ越してきてから、一度も置いたことがない。それでも、玄関脇の小さな棚の上で、見覚えのない黒い電話機が一度だけ鳴った。
受話器は取らなかった。音はそれきりだった。けれど、すぐ壁の向こうで、三〇二号室の留守番電話が応答した。
カチリ。
そして録音が始まる、細い回転音。
翌朝、私は管理人室へ走った。坂口さんはいなかった。机の上に湯呑みがひとつ、まだ温かいまま置かれていた。壁には入居者一覧の紙が貼ってある。四階の欄を見て、私はそこにしばらく立ち尽くした。
三〇一号室の行に、私の名字がなかった。
空欄になっていたわけではない。最初から誰の名も記されていなかったように、罫線の白さだけがあった。
その夜、私は部屋の灯りを消して、電話から最も遠い隅で膝を抱えた。二時十七分の少し前、廊下で私の足音がした。部屋の外を、私がゆっくり歩いてくる音だった。鍵穴に金属が触れ、合わない鍵が何度か擦れた。
電話が一度だけ鳴った。
取らなかった。息も殺した。
すると隣の三〇二号室で、留守番電話が応答した。
壁越しに、録音されたばかりの私の声が、くぐもって聞こえてきた。
「います」
短く、それだけ。
それからしばらくして、廊下の足音は、もうひとつ増えた。