短編
四〇三号室あての手紙
母を亡くしたばかりの女は、存在しないはずの四〇三号室あてに届く手紙に、少しずつ自分の居場所を奪われていく。
母が死んだあと、私は古い賃貸に越した。
駅から十分、川沿いの、外壁だけが妙に白い四階建てだった。部屋は四〇四号室。縁起でもない番号だと友人は笑ったが、私は空いていることのほうがありがたかった。誰にも気を遣わず、泣きたい夜に泣ける部屋がほしかった。
最初の手紙は、引っ越し三日目の雨の夕方に届いた。
薄いクリーム色の封筒で、切手も消印もなかった。表には整った字で、こう書かれていた。
四〇三号室 日野紗弥様
見覚えのない宛名ではない。私の名前だった。だがこの建物に四〇三号室はない。階段を上がると、四階は四〇一、四〇二、そして私の四〇四だけだった。廊下の角に、番号ひとつぶんだけ空白があるようにも見えるが、そこには壁しかない。
管理人室へ持っていくと、管理人の大西さんは封筒を見るなり眉を寄せた。
「また入ってたの」
「また、というのは」
「いいから捨てときなさい。返事しないこと」
そう言って、妙に急いで新聞へ視線を落とした。私は封筒を持ち帰り、部屋でしばらく眺めた末に開けてしまった。
中には便箋が一枚。
壁の向こうで水が鳴る夜は、返事をしないで。
それだけだった。
悪質ないたずらだと思った。けれど、その夜、洗面所の壁の奥で、たしかに水の走る音がした。古い建物だからだろう、と自分に言い聞かせたが、音は配管の響きというより、誰かが低い声で長く息を吐いているようでもあった。
次の手紙は二日後に来た。
まだあの古い湯呑みを捨てられないのですね。
私は思わず流し台の上を見た。欠けた湯呑みが伏せてある。母が最後まで使っていたもので、荷造りのとき、どうしても新聞紙に包めなかった。
三通目には、こうあった。
夜ごと留守番電話を聞くのは、声が薄くなる前に覚えたいからでしょう。
私はその便箋を床に落とした。母の携帯は解約する前にデータを移し、古い留守電だけを何度も聞いていた。仕事が終わって帰ると、靴も脱がないまま再生する癖があった。誰にも言っていないことだった。
封筒はいつも少し濡れているのに、中の紙だけが乾いていた。雨の日ほど、字ははっきり黒かった。
それから、私は帰宅するとまずポストを見るようになった。見たくないのに、見なければ落ち着かなかった。封筒がないと安堵し、あると指先が冷えた。
四階の廊下はいつも静かで、私の足音だけが白く響いた。四〇二の老婦人と一度だけ鉢合わせたとき、思いきって訊いてみた。
「この階って、昔から三部屋でしたか」
老婦人は買い物袋を抱えたまま、少しだけ黙った。
「あなた、返事したの」
「いいえ」
「じゃあ、まだ大丈夫」
そう言って、自分の部屋へ入ってしまった。
まだ大丈夫、という言い方が耳に残った。
その晩、私は洗面所の前で立ち尽くした。壁の向こうで、また水が鳴っている。前より近い。耳を寄せると、水音に混じって、かすかな声がした。
——紗弥。
母の声だった。
硬くなっていた喉が勝手にひらきかけた。私は慌てて口を押さえた。息の音さえ返事になる気がした。
翌朝、ポストに新しい封筒が入っていた。
えらいですね。まだ、こちらへ来ないでいられる。
丁寧な字だった。労わるようで、試されているようでもあった。私は初めて腹が立った。便箋の裏にボールペンで書いた。
あなたは誰ですか。
それを封筒に戻し、自分のポストのいちばん奥へ差し込んだ。子どもじみていると思ったが、何もしないよりはましだった。
次の日、返事が来た。
わたしは、空いた部屋です。
その一文を読んだ瞬間、部屋の中で何かが小さく軋んだ。振り向くと、洗面所の戸がひとりでに少し開いていた。中は暗く、蛇口から水が一滴も落ちていないのに、濡れた匂いだけが濃かった。
それから手紙は毎日来た。
こちらは静かです。
探しものをしなくてすみます。
声も、後悔も、きれいにしまえます。
あなたはもう、長く立っていなくていい。
仕事中も文面が頭から離れなかった。書類の数字が滑り、会話の途中で相手の顔を見失った。帰宅すると、廊下の壁が湿って見えた。四〇二と四〇四のあいだ、何もないはずの場所の白い壁紙だけが、指で押せばへこみそうに柔らかく見えた。
雨の激しい夜だった。停電で廊下の非常灯だけが点き、建物全体が水槽の底みたいな青さに沈んでいた。私はポストに入っていた最後の封筒を握って四階へ上がった。
お母さまがお待ちです。
今夜なら、ちゃんと開きます。
やめればよかった。けれど、そこまで来てしまうと、やめるという行為にはもう強い意志が要った。私は疲れていた。母のいない朝にも、母のいない食卓にも、母のいない自分の声にも。
四階の廊下は、いつもより長かった。
四〇二の隣、壁しかないはずの場所に、木の扉があった。深い茶色で、雨に濡れたみたいに艶がある。真鍮の数字が打たれていた。
403
扉の下から、細い光が漏れていた。中から湯気のようなあたたかい匂いがした。味噌汁と、濡れた傘と、母のハンドクリームの匂いだった。
「紗弥」
今度ははっきり聞こえた。私は泣きながら、でも声は出さずに、ノブへ手をかけた。返事をしたらだめだと、最初の手紙に書いてあったから。
扉は抵抗なく開いた。
そこに何があったのか、細かく書くことはできない。ただ、あまりにも私のほしいものだけでできた部屋だった。テーブルの上には欠けていない湯呑みがあり、流しには洗ったばかりの皿が伏せてあり、奥の暗がりから、母が咳払いする気配がした。
私は一歩、踏み入れた。
翌朝、目が覚めると、部屋は静かだった。雨はやみ、窓から白い光が差していた。私は玄関を開け、廊下へ出た。四階はいつもどおりの幅で、非常灯も消えていた。
左には四〇一。
右には四〇二。
その隣に、私の部屋があった。
扉の数字は四〇三になっていた。
私はしばらく、それを眺めていた。動悸はしなかった。驚きも、半分はどこかへ置いてきたみたいに薄かった。郵便受けの名札には、日野紗弥とある。最初からそうだったような、気もする。
一階へ降りると、ポストの列の端に、新しい札のついた箱がひとつ増えていた。
四〇四号室
その中に、まだ誰のものでもない白い封筒を見つけた。切手も消印もない。乾いた紙の匂いがした。
私はしばらく迷ってから、便箋を一枚取り出し、丁寧な字で書いた。
壁の向こうで水が鳴る夜は、返事をしないで。