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短編

四〇三号室の表札

空室のまま長く放置された四〇三号室の表札が、隣人の名前を少しずつ奪いはじめる。

Genre
ホラー
Series
単発
#集合住宅#表札#空室#雨#郵便

私の住む「朝凪荘」は、海の見えない町にあるくせに、いつもどこか湿っていた。廊下の手すりは朝ごとに薄く汗をかき、共同玄関のガラスは曇りがちで、晴れの日でも遠くで雨が降っているような匂いがした。

四階まで階段しかない古い建物で、各部屋の扉には細長い金属の表札差しがついている。白い紙に部屋の住人が名字を書いて差し込むだけの、簡単なものだ。大抵の家は印字した札を入れていたが、四〇三号室だけがずっと空白だった。

空白、といっても、何も入っていないわけではない。誰かが白紙を切って、きちんと寸法を合わせて差してある。だから遠目には、そこだけが妙にきれいだった。ほかの札がみな少し黄ばんでいるぶん、その白さは目立った。

私が三〇二号室に越してきたのは梅雨入りの少し前で、最初に四〇三号室の表札を意識したのは、引っ越しから十日ほど経った雨の夜だった。

共同玄関の呼び出し音が鳴った。

古いインターホンなので、来客のたびに建物じゅうへ響く。受話器を取ると、雑音の奥で女の声がした。

「四〇三号室の方ですか」

違います、と答えようとして、私は受話器を耳に押し当てたまま黙った。声は続けた。

「表札、まだでしたよね」

そこで、ぶつりと切れた。

いたずらにしては妙だった。こちらが何も名乗っていないのに、相手は用件だけを置いていった。その夜は気味が悪かっただけで済んだが、翌朝、郵便受けに見慣れない封筒が入っていた。宛先は三〇二号室、水沼澄子様。

私の名字はもちろん違う。

誤配だろうと思って管理人室へ持っていくと、管理人の石戸さんは封筒を見た瞬間、指先だけでそれをつまみ上げた。濡れた虫でも払うみたいな持ち方だった。

「また来たんですか」

「また、って」

「四〇三に来る郵便です。最近は階を間違えるんですよ」

石戸さんは宛名を確かめ、ため息をついて言った。

「差出人に戻しておきます。三〇二の表札、ちゃんと出してますよね」

妙なことを訊くなと思ったが、私はうなずいた。越してきた日に自分で印字した札を差し込んである。

「なら、しばらく触らないでください」
「何をですか」
「表札を」

それだけ言うと、石戸さんは話を終わらせるように管理人室の戸を閉めた。

その日から、帰宅するとき、私は無意識に各部屋の表札を見るようになった。四〇三号室は相変わらず白いまま、三〇二号室には私の名字がまっすぐ差さっている。何も変わっていない。なのに、夜になるとまた呼び出し音が鳴る。

「四〇三号室の方ですか」
「表札、まだでしたよね」
「ここ、帰る場所がわからなくなるので」

三日目の夜、私はついに受話器を置いたまま玄関まで降りた。共同玄関の外には誰もいなかった。濡れた傘立てと、自動販売機の青白い光だけがあった。ガラス戸に映った自分の顔が、妙にぼんやりして見えた。

翌朝、三〇二号室の表札が裏返っていた。

抜け落ちたわけではない。きちんと差し込まれたまま、白紙の裏面だけが表に出ている。まるで誰かが丁寧に名前を隠したみたいに。

気味が悪くて、私はすぐに札を抜いた。湿気を吸って少し波打っていたが、表には確かに自分の名字がある。それを差し直して出勤し、夕方に帰ってくると、郵便受けにまた封筒が入っていた。

今度は二通。どちらも三〇二号室、水沼澄子様。

一通は通販の明細、もう一通は歯科医院の定期検診の案内だった。生活の匂いがあるせいで、かえってぞっとした。存在しない誰かが、この住所に少しずつ馴染んできているようだった。

石戸さんを訪ねたが、その日は不在だった。代わりに四〇一号室の老婦人が廊下で会釈してきて、私の手にある封筒を見て、静かに眉を寄せた。

「あなた、三〇二の人」
「はい」
「あそこが空いて長いから」

それだけ言って、老婦人は自分の戸を少し開けた。中から線香の匂いがした。

「空いて長い部屋はね、近くの名前を借りるの。郵便屋さんは表札で配るでしょう。人も、案外そうなのよ」

私は笑えなかった。老婦人の声が、迷信を語る調子ではなかったからだ。

「四〇三には、前に女の人が住んでたの。引っ越すとき、表札を抜いていった。あれからよ。たまに誰かの札が裏返るようになったのは」
「水沼、さんですか」
「さあねえ。名前は置いていかないほうがいいし、空白も置いていかないほうがいいのよ」

戸はそこで閉まった。

その夜、私は四〇三号室の前まで行った。白い札は昼間より白く見えた。廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、そこだけが水の底みたいに青かった。私は自室からメモ用紙と黒いペンを持ってきて、思いつきで「空室」と書いた。白紙よりはましだろうと思ったのだ。

札を差し替えた瞬間、背後で共同玄関の呼び出し音が鳴った。四階まで、錆びた金属の管を伝うみたいに響く。

受話器を取ると、女の声がした。

「空室さん、開けてください」

私は受話器を落とした。

翌朝には「空室」の札はなくなっていた。四〇三号室にはまた白紙が戻り、代わりに私の郵便受けに一枚の古い葉書が入っていた。切手も消印もなく、誰かが手で差し込んだのだとすぐわかった。

宛名はない。本文だけが、薄い青インクで書かれていた。

表札を出しなさい。
帰る場所がわからなくなるから。

その文字は、ひどく几帳面で、古い国語の教科書みたいだった。裏を見ると、隅にだけ小さく「澄子」とあった。

私は初めて、水沼澄子という名前に顔らしきものを想像した。几帳面な文字を書く人。帰る場所を気にする人。けれど想像した途端、その輪郭は私の顔に近づいてきて、鏡を見たくなくなった。

次の日、会社に届いた社内便に「水沼様」と書かれていた。訂正もされず、周りは誰も違和感を示さなかった。ただ私だけが、自分の席に置かれたその封筒をしばらく触れなかった。

ここまで来て、私はやっと石戸さんの言葉の意味を理解した。触らないでください、というのは、自分の札を守れという意味だったのだ。けれど守るだけでは足りない。四〇三号室の空白が近くの名前を吸い寄せるなら、あそこに何か名前を返してやらなければならない。

管理人室の前に、返送予定の郵便を入れる古い木箱がある。昼間、石戸さんが昼食に出た隙に、私はその中を見た。四〇三号室宛の封筒が何通も束ねてあり、いちばん古いものは紙が飴色になっていた。その一通にだけ、差出人欄と同じ筆跡で小さく名前が添えられていた。

水沼澄子様

それを見たとき、不思議と「これだ」と思った。見つけてはいけないものを見つけた感覚ではなく、あるべき位置に鍵がはまるような感覚だった。

夜、私は厚手の白紙を切って、丁寧にその名前を書いた。水沼澄子。インクが乾くまで待ち、四階へ上がった。廊下はしんとして、雨の音だけが外壁を撫でていた。

白紙を抜き、新しい札を差し込む。金属の差し口に紙が収まるとき、小さな抵抗があって、それが妙に人の喉みたいだった。

その瞬間、どこかで、ほっと息をつく音がした。

風かもしれない。配管かもしれない。けれど私には、長いあいだ戸口で待っていた誰かが、やっと自分の名前を受け取ったように聞こえた。

それから呼び出し音は鳴らなくなった。会社でも、郵便でも、私の名前は元に戻った。三〇二号室の表札が裏返ることもない。石戸さんは何も言わなかったが、四〇三号室の前を通るときだけ、目を伏せるようになった。

朝凪荘は相変わらず湿っている。手すりは汗をかき、共同玄関のガラスは曇る。けれど四階の廊下だけは、以前より少しだけ落ち着いて見える。

先週から、四〇三号室の郵便受けは空になった。差し込まれていたチラシもなくなり、夜になると扉の向こうにかすかな明かりが滲むことがある。石戸さんに訊いても、「入居の予定はありません」としか言わない。

それでも昨日、帰宅した私は階段の踊り場で立ち止まった。四階から、鍵を回す小さな音がしたからだ。金属が馴染んだ、静かな一回転。

見上げると、四〇三号室の戸の下から細い光が伸びていた。誰かがちゃんと部屋にいて、ちゃんと帰ってきたときにしかできない、まっすぐな線だった。

私はそのまま三〇二号室まで降り、自分の表札を指で確かめた。紙は乾いていて、私の名字はそこにあった。

安心したはずなのに、その夜、郵便受けに一枚だけ葉書が入っていた。

よく見慣れた、几帳面な青い文字で、こう書かれていた。

表札、ありがとうございます。

差出人の欄には、何もなかった。