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短編

四〇三号室の留守番電話

遺品整理のために訪れた古い団地の一室で、契約の切れた電話に残された声を聞くたび、主人公の記憶から誰かが静かに欠けていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#廃団地#留守番電話#記憶#家族#孤独

母方の祖母が死んで、私はその部屋の片付けを任された。

市の外れにある築五十年の団地で、四〇三号室は最上階のいちばん奥にあった。エレベーターのない棟だったから、段ボールを持って四階まで上がるだけで息が切れた。廊下は昼でも薄暗く、コンクリートの手すりは雨を吸って黒ずみ、どの部屋の前にももう何年も植え替えられていない植木鉢が並んでいた。

祖母は生前、電話を切らなかった。携帯を持たず、壁際の小さな台の上に置いた灰色の留守番電話をひどく頼りにしていた。誰からもかかってこない日でも、受話器を拭き、コードのねじれをほどき、赤いランプが正常に点くか確かめていた。母はそれを笑っていたが、祖母は真顔でこう言った。

「鳴らなくても、待ってるうちに覚えていられることがあるからね」

私はその意味を聞いたことがない。

玄関を開けると、部屋は拍子抜けするほど整っていた。古い箪笥、薄い座布団、日焼けしたカレンダー。生活の跡はあるのに、人だけがきれいに抜け落ちている。畳には祖母の癖だった小さな掃き目が残り、窓辺には洗い終えた湯呑みが伏せてあった。

その静けさの中で、電話の赤いランプだけが点滅していた。

最初は見間違いかと思った。電気は止めてあるはずだし、電話の契約も、祖母が入院した時点で解約したと聞いていた。けれど灰色の機械の小窓には、たしかに数字の「1」が光っていた。

私は妙な気分になりながら再生ボタンを押した。

ザーッという細いノイズのあと、女の子の声がした。

『おばあちゃん、きょうは雨だよ。ベランダの靴、ぬれちゃうよ』

幼い声だった。六つか七つくらい。舌足らずなのに、言葉だけは妙に澄んでいる。親戚の子だろうかと思ったが、祖母にそんな年頃の孫はいない。母は一人っ子で、私にも兄弟はいないはずだった。

声はそこで切れた。

再生が終わると、部屋がほんの少し広くなったような気がした。錯覚にしては輪郭のある違和感だった。押し入れの横にあったはずの子ども用の傘立てがなくなっている。いや、最初からなかったのかもしれない。私は曖昧なまま首を振り、遺品の仕分けを始めた。

台所の引き出しから輪ゴムの束や古い請求書が出てきて、その中に一枚だけ、端の破れた家族写真が混じっていた。若い祖母と母、そして小学生のころの私。三人で海辺に立っている。私はそれを見て、なぜか胸騒ぎを覚えた。写真の左端が不自然に切れていて、そこには本来、もう一人立っていたような空白がある。

誰がいたのだろう、と考えた瞬間、電話のランプがもう一度点いた。

「追加で録音された?」

思わず口に出してから、自分で嫌になった。そんなはずがない。契約の切れた電話に、誰が、どうやって。

それでも私は、もう一度再生ボタンを押した。

今度の声は同じ子だった。少し息をひそめ、内緒話をするみたいにささやいている。

『おばあちゃん、わたしのコップ、まだある? みずいろの、うさぎのついたやつ』

そのあと、かすかな笑い声と、遠くで食器の触れ合う音がした。

私は反射的に食器棚を開けた。いちばん奥に、欠けたグラスが一つある。水色の縁に、色あせた白いうさぎ。見た途端、喉の奥がひやりとした。これを知っている、と思ったからだ。けれど、誰のものだったかだけが出てこない。

名前が舌の裏に乗りかけて、そのまま溶けた。

部屋の空気は湿っているのに、私の手の甲だけが乾いて、古い紙みたいにかさついていった。

夕方になるころには、私は整理の手を止めていた。気味が悪いのではない。もっと困る種類の恐ろしさだった。思い出しかけるたび、その記憶の縁がぼろぼろ崩れていく。母に電話をかけ、写真のことを聞こうとしたが、呼び出し音を聞いているあいだに何を尋ねたかったのか曖昧になり、結局「片付けは明日もかかりそう」とだけ伝えて切った。

日が落ちると、団地の窓という窓が黒い穴になった。向かいの棟にもほとんど灯りはない。雨が降り始め、廊下の手すりを打つ音が部屋の中まで染みてくる。

そのとき、留守番電話の赤いランプが、点滅ではなく、脈を打つように明滅しはじめた。

私は逃げるべきだと思った。けれど、それ以上に、いま聞かなければ取り返しのつかないことになる気がした。祖母がこの電話を切らなかった理由が、たぶんそこにある。

再生ボタンを押す。今度はノイズが長かった。雨音のようでもあり、誰かが遠くで拍手しているようでもあった。

そして、子どもの声が言った。

『おにいちゃん、まだいる?』

心臓が一度、空振りした。

『おばあちゃん、もう忘れそうだから、先にこっちに入ってるね。おにいちゃんが来たら、ちゃんと聞かせてあげて。わたし、先に消えたら、ほんとにいなかったことになっちゃうから』

そこまで聞いたところで、私の頭の奥で硬いものが割れる音がした。

妹だ。

私は兄だった。

夏祭りの夜、祖母の部屋で一緒に花火の残りを数えたこと。青いうさぎのコップで麦茶を飲んで、口の周りに泡をつけて笑っていたこと。名前を呼んだ記憶だけが、なぜかひどく遠い。顔立ちは思い出せるのに、名前だけが、暗い水の底に沈んでいる。

そして思い出した。あの団地で、ひとり子どもがいなくなったことを。警察も来た。母は泣き腫らして、祖母だけが妙に静かだった。見つからなかったのだ。事故でも、誘拐でもなく、ただ、団地の中で痕跡ごと薄れていった。家族写真の左端から、学校の連絡網から、アルバムの背表紙から、少しずつ、ひどく丁寧に。

祖母だけが覚えていた。だから電話を切らなかったのだ。忘れないために。声を残しておくために。

ランプはまだ光っていた。新しいメッセージがある合図のように。

私は震える指で写真をつかみ、裏返した。ボールペンで祖母の字が残っている。

「海。四人で」

四人。

その文字を見た瞬間、涙が出た。悲しいからではない。祖母が死んだことで、最後の留め金が外れたのだとわかったからだ。このまま電話を切れば、母も私も、妹の不在だけを自然なものとして受け入れてしまう。最初からいなかったことにされる。

私は部屋中を探し、古い大学ノートを見つけた。表紙に大きく、「忘れる前に書く」とある。中には、妹のことがびっしり書かれていた。好きだった飴の味、前歯が一本欠けていたこと、うさぎのコップ、雨の日にベランダへ靴を出しっぱなしにする癖。祖母の字はページを追うごとに荒れ、同じことを何度も書き直していた。最後のページには、一行だけ。

「声は消える。書いたものも消える。だから次の人に渡す」

電話が鳴った。

着信音ではない。留守番電話の録音開始の、短い電子音だった。

受話器は置かれたままなのに、機械が勝手に回り始めている。私は喉の渇きを飲み込み、祖母のノートを片手に受話器を取った。耳を当てると、無音の底で、かすかに誰かが待っている気配がした。

私は自分の名を言い、それから、ようやく妹の名を口にした。

言えた、と思った。たしかに言えたのに、録音が終わったあと、その音の形だけが頭に残って、文字にしようとすると指が止まった。

窓の外では雨が強くなり、廊下の暗がりに子どもの足音が一度だけ走った。

帰る前に、私はノートの最初のページを破り、そこに大きく書いた。

「この部屋には四人家族の記憶がある」

本当はもう一行、名前を書きたかった。何度もペン先を置いたが、そのたびにインクがかすれて、線にならなかった。

団地を出るとき、四階の廊下のいちばん奥、四〇三号室のドアの隙間から、留守番電話の赤いランプがまだ瞬いていた。呼吸のように、あるいは、忘れられまいとして目を開け閉じする小さな生き物のように。

あれから三日経つ。

破ったページは机の上に置いてある。そこに書いたはずの「四人」の字が、さっき見たら「三人」に変わっていた。

だから私は、消える前にこれを書いている。

次にあの部屋へ行くのが、私一人でありませんように。