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短編

四〇四号室の留守電

空室のはずの四〇四号室から届く留守電は、まだ起きていない夜の出来事を静かに告げてきた。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#留守番電話#隣人#怪談#記憶

引っ越してきた日の夕方、不動産屋は鍵を渡しながら、四階の端だけはなるべく見ないでください、と妙なことを言った。

冗談めかした言い方ではなかった。書類を閉じる音に紛れそうなほど小さな声で、注意というより、長年同じ説明をくり返してきた疲れのようなものを滲ませていた。

「四〇四号室、ですか」
「空室です」
「じゃあ別に」
「ええ、空室です。ただ、昔の癖で」

それだけだった。

築四十年を超えた団地は、雨を吸った畳みたいな匂いがした。エレベーターはなく、鉄の手すりは夏なのに冷たい。私の部屋は四〇三号室、問題の四〇四号室の隣だった。玄関のプレートは外され、郵便受けの口には内側からガムテープが貼られている。たしかに誰も住んでいないふうだったが、扉の下だけが奇妙にきれいで、毎日そこだけ拭かれているみたいに埃がなかった。

前の住まいより家賃が安く、職場まで自転車で十五分。独り身の派遣社員には十分だった。夜になって荷解きもそこそこに終わり、コンビニ弁当を食べながら、置き去りにされていた固定電話機に気づいた。ベージュ色の古い留守番電話だ。大家に連絡しようか迷ったが、使わないならそのままでいいかと思った。コンセントは抜かれていたし、今どき誰もこんなものに電話はかけない。

その夜の二時十七分、受話器の向こうで電子音が鳴って、私は目を覚ました。

眠りの底から引き上げられた頭では、最初それが自分の部屋の音だと分からなかった。壁の薄い建物だから、隣か上下の部屋だろうと思った。だが、しばらくしてまた鳴る。短く、乾いた機械音。録音の開始を知らせる音だと気づくのに少し時間がかかった。

私の部屋の、あの留守番電話だった。

布団から起き上がり、暗い台所へ行く。機械の赤いランプが点滅している。コンセントは差した覚えがない。けれど差さっていた。まるで最初からそうであったように、白いコードが壁に伸びている。

再生ボタンを押すと、ざらついた無音のあとに、女の声がした。

『今夜、三時九分に廊下を歩かないで』

そこで切れた。

間違い電話のいたずらにしては、妙に息遣いが近かった。低く、平坦な声で、警告だけを置いて去っていった感じがした。私はしばらく機械の前で突っ立っていたが、三時九分という具体的な数字が気味悪く、結局そのまま布団へ戻った。寝つけないまま時計を見る。三時八分。自分でも馬鹿らしいと思いつつ、私は布団の中で息をひそめた。

三時九分ちょうど、廊下を何かが通った。

足音ではない。もっと柔らかく、濡れた布が床をゆっくり擦るような音だった。玄関の向こうを、重みのないものが引きずられていく。音は私の扉の前で一度止まり、それから隣の四〇四号室の前で、長く動かなくなった。

朝、ドアスコープから見た廊下には何もなかった。新聞受けに朝刊が差し込まれていて、遠くで子どもの声がしていた。昨夜のことだけが、そこだけ別の湿度で残っていた。

二日目の夜も、二時十七分に留守電が入った。

『今夜は返事をしないで』

再生した直後に、玄関チャイムが鳴った。

喉がひやりとした。モニターのない古いインターホンに顔を寄せても、外の気配は分からない。もう一度鳴る。私は反射的に「はい」と言いかけて、留守電の声を思い出し、唇を閉じた。

沈黙のまま立っていると、扉の外で、誰かが小さく笑った。

女とも男ともつかない、咳のような短い笑いだった。やがて足音もなく気配が遠のく。数分後、隣の四〇四号室で、鍵のないはずの扉がゆっくり閉まる音がした。

翌朝、管理人室へ行って昨夜のことを話した。管理人の老女は、雑巾を絞る手を止めて私を見たが、驚かなかった。

「前の人も、最初は留守電だった」

「最初は、って」

「だんだん近くなるのよ」

彼女は四〇四号室のことを話したがらなかった。ただ十年前、その部屋で一人暮らしの女が死んだこと、その女は毎晩隣に電話をかけて苦情を言っていたことだけを教えてくれた。廊下を歩く音がうるさい、玄関の前に立たないで、夜中に笑わないで。けれど苦情を受けた隣人は、ずっと空室だったはずの四〇三号室に住んでいたと言い張ったらしい。

「どういう意味ですか」
「意味なんか後からつくものよ」

老女は雑巾をバケツに戻し、話は終わりというふうに目を伏せた。

三日目、私は帰宅してすぐ電話機のコンセントを抜いた。念のため本体も棚の上から床へ下ろし、線をまとめてビニール袋に入れた。それでも二時十七分、台所から電子音が鳴った。

袋の中で、赤いランプが明滅していた。

再生すると、今度の声は少し掠れていた。

『今夜、のぞかないで。あの人は、目が合った相手を覚えるから』

私は泣きたいほど帰りたくなった。けれど、ここがもう帰る場所だった。仕事もある。貯金もない。怪談ひとつで住み替えられるほど、人生は軽くなかった。

だから、その晩も私は部屋にいた。

三時を過ぎるころ、例の擦れるような音が廊下を近づいてきた。私は布団を頭までかぶり、目を閉じた。音は玄関前で止まり、ドアに体を預けるような微かな軋みがある。しばらくして、紙が床を擦る音がした。投函口から何か差し込まれたのだと分かった。

朝まで待って確認すると、白いメモ用紙が一枚、内側に落ちていた。

細い鉛筆の字で、こう書いてある。

「今夜は四〇四にいて」

仕事中もその文が頭から離れなかった。誰の悪ふざけにしては、あまりにも手間がかかりすぎている。私は終業後、意を決して管理人から四〇四号室の予備鍵を借りた。老女は無言で鍵を差し出し、受け取る私の指先を見て、初めて少しだけ哀れむような顔をした。

四〇四号室は、驚くほど普通の空室だった。六畳と四畳半、古い流し台、日に焼けたカーテンレール。家具はない。ただ、電話台だけが壁際に残され、その上に私の部屋にあるものと同じ型の留守番電話が置かれていた。こちらは最初からコンセントが差さっていて、赤いランプは消えている。

私は逃げ道を確保するように扉を半開きにしたまま、部屋の隅に座った。

二時十七分。

四〇四号室の留守電が鳴った。

心臓が痛いほど跳ねる。再生ボタンに指を伸ばすと、聞き覚えのある、少し震えた女の声が流れた。

『お願い、今夜だけでいいから、隣にいて。あれは、ひとりの部屋に入るから』

その声が、自分のものだと気づくまでに数秒かかった。

息を吸った瞬間、廊下であの音がした。濡れた布を引くような、重さのない何かの移動。半開きの扉の向こう、暗い廊下を、影が通っていく。人の背丈ほどあるのに厚みがなく、月明かりに濡れた染みだけが立ち上がって歩いているように見えた。

それはまっすぐ四〇三号室へ向かった。

私の部屋の前で止まり、ゆっくりと扉に触れた。すると内側から、かすかにチャイムが鳴る。私はここにいるのに。空のはずの四〇三号室の中で、受話器が持ち上がる気配がした。

影は扉の隙間へ染み込むみたいに消えた。

同時に、四〇四号室の留守電がもう一度鳴った。機械的な電子音が、ひどく嬉しそうに聞こえた。再生もしていないのに、スピーカーから声が漏れる。

『代わりに、ありがとう』

私は凍りついたまま、開いた扉の向こうを見ていた。

廊下の先、非常灯の下に、女が立っていた。管理人でも、不動産屋でもない。髪の長い痩せた女で、顔の輪郭が薄暗がりに滲んでいる。その口元だけが、やけにはっきりと見えた。

笑っていた。

翌朝、四〇三号室の鍵穴には内側から鍵がかかっていた。管理人と二人で何度呼んでも返事はない。警察を呼ぶ騒ぎになる前に、老女は私を見て低く言った。

「もう隣じゃなくなったのね」

その意味を、私はすぐには理解できなかった。

管理人室の台帳を見せてもらったとき、ようやく分かった。昨夜まで四〇三号室の入居者欄にあった私の名前は消え、四〇四号室の欄にだけ、古い薄墨みたいな字で記されていた。入居日は十年前になっている。

老女は私に新しい鍵束を渡した。真鍮の札に、小さく「404」と刻まれていた。

「電話は、置いておきなさい」
「どうして」
「注意を聞く人が、次に来るから」

今夜も二時十七分になれば、赤いランプが灯るのだろう。

私はまだ、自分が誰の代わりになったのかを知らない。けれど壁の向こう、いるはずのない四〇三号室から、ときどき受話器を戻す音が聞こえる。最初の夜、私に警告を残した声が、あれから一度も留守電に入らないことだけは分かっている。