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短編

四一七号室の返事

空室のはずの四一七号室から毎夜届く呼び出しに応じた男が、自分の名前の置き場所を失っていく短編ホラー。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#インターホン#空室#記憶#夜

雨の音が、古い団地の廊下を細く長くしていた。

引っ越してきて三日目の夜、僕は玄関のインターホンで目を覚ました。午前二時十一分。こんな時間に来る知り合いはいない。そもそも、ここへ越してきたことを知っている人間がほとんどいない。

受話器を取ると、ざらついた無音の向こうで、女とも子供ともつかない声がした。

「……いますか」

寝ぼけた頭で「どちらですか」と返したが、返事はない。代わりに、団地全体が息を止めたような静けさが、耳に薄く貼りついた。そのまま数秒待ってみても何も起きず、やがて通話は切れた。

翌朝、管理人にその話をすると、老人は新聞を折る手を止めずに言った。

「誤作動でしょう。この棟の配線、古いからね」

それだけだった。あまり興味もなさそうだったし、僕も深くは聞かなかった。

二日目の夜も、同じ時刻に鳴った。

今度は、はっきりとした言葉だった。

「四一七号室です。いますか」

僕は部屋番号を見上げた。僕の部屋は三〇九号室だ。ひとつ上の階の、廊下の突き当たりが四一七号室だったはずだが、昼間に通ったとき、表札は外され、郵便受けにはガムテープが十字に貼られていた。空室だと思っていた。

「間違えてませんか」と言った。

しばらくして、受話器の向こうで、湿った息のような音がした。

「まだ、いないんですね」

そこで切れた。

妙に気になって、翌日の夕方、僕は四階まで上がってみた。コンクリートの階段はひどく冷えていて、踊り場の窓には雨の名残が白く曇っていた。四一七号室の前まで行くと、たしかに人の住む気配はなかった。ポストは空。ドアノブに細い紙片が挟まっていて、管理会社の巡回記録らしい日付がいくつか並んでいる。少なくとも先月から空室と見てよさそうだった。

けれど、ドアの下の隙間にだけ、なぜか新しい影があった。部屋の中で電気が点いているときの、薄い黄色い線だ。

僕はしばらくその線を見ていたが、ノックする勇気は出なかった。

その夜、またインターホンが鳴った。

午前二時十一分。きっちり同じ時刻。

「四一七号室です」

受話器の向こうの声は、少しだけ近くなっていた。

「いますか。あなた、まだそこにいますか」

「そこって、どこですか」

「三〇九」

喉が狭くなった。僕は何も言えなかった。

「やっと入れたんですね」と声は言った。「よかった。ずっと空いていたから」

僕は乱暴に受話器を戻した。心臓が早く鳴っている。夜の団地は、水の底みたいに静かだった。隣室からも上階からも生活音がしない。その静けさの中で、自分の部屋の番号だけが、急によそよそしいものに思えた。

翌日、会社で名札を見たとき、少しだけ違和感があった。印字された自分の名字が、借り物みたいに見えたのだ。見慣れているはずの二文字なのに、角ばった黒い記号の並びでしかない。昼休みにスマホで自分の名前を打とうとして、一瞬、漢字の順番に迷った。

疲れているのだと思った。

しかし、その夜も鳴った。

「四一七号室です。いますか」

今度は切らずに聞いた。

「何の用ですか」

「確認です」

「何を」

「あなたが、まだあなたかどうか」

笑い飛ばしてしまえばよかったのに、できなかった。声の調子に、冗談の入る隙がなかったからだ。幼いようでいて、年寄りのようでもあり、誰か一人の声に聞こえない。遠いところで何人かが同じ口を使って喋っているようだった。

「意味がわかりません」

「最初はみんな、そう言います」

そこで、ふと受話器の向こうに別の音が混じった。インターホン越しの雑音ではない。もっと近い。自分の部屋の、玄関の外で、誰かがそっと爪を立てているような、小さな引っかき音だった。

僕は受話器を持ったまま、玄関を見た。ドアチェーンは掛けてある。覗き穴は暗い。

「見ないで」と声が言った。

その一言で、体が凍った。

「見たら、返事をしたことになります」

受話器を落とした。床にぶつかって乾いた音がし、通話は切れた。それでも、ドアの向こうの気配だけは消えなかった。人が立っているというより、立っていた形がそこに染みついているみたいだった。

朝になると、玄関マットの上に細い紙片が落ちていた。管理会社の書類でもチラシでもない。古い便箋を乱暴に破ったような紙で、鉛筆で一行だけ書かれていた。

――三〇九の前の人は、三回目で開けた

気味が悪くなり、管理人室へ持っていった。老人はそれを見て、初めて新聞から目を上げた。

「四一七に行ったんですか」

声が少し低かった。

「行きました。空室ですよね」

老人はすぐに答えなかった。やがて窓の外を見てから、ぼそりと言った。

「あそこはね、昔、呼び出しを続ける人がいたんです」

「誰をですか」

「自分を」

意味がわからず黙っていると、老人はもう話したくなさそうに湯呑みへ口をつけた。

「昔のことです。住人がいなくなっても、夜中になると下の部屋を呼ぶ。入れ替わるたびに、ひとりずつ、おかしくなる。自分の名前を忘れるとか、部屋番号を間違えるとか、そういう小さいところから始まる」

「警察は」

「事件にはならない。失踪でもない。皆、ちゃんと出ていくからね」

「どこへ」

老人は答えなかった。

その夜、僕は電源ごとインターホンを落とした。壁から外し、配線を抜き、玄関の外にガムテープを貼って、呼び鈴も押せないようにした。これで終わる。そう思った。

午前二時十一分、部屋の電話が鳴った。

固定電話など契約していない。着信音は、どこからともなく部屋の中央で鳴っていた。机の上を見ると、見覚えのない白い電話機が置かれている。受話器が小刻みに震えていた。コードはどこにも繋がっていない。

鳴り止まない。

僕は後ずさった。けれど、あの音は耳ではなく、もっと内側で鳴っているようで、距離を取っても意味がなかった。やがて恐怖より先に、耐えられなさが来た。僕は受話器を取った。

「……はい」

「四一七号室です」

すぐ真後ろで囁かれたように聞こえた。

「いますか」

僕は返事をしなかった。けれど、沈黙の中で、自分がもう半分、返事をしていることを知っていた。聞いてしまった時点で、扉は少し開いている。

「あなたの名前、言えますか」

簡単な問いのはずだった。なのに、僕は息を吸ったまま止まった。名字も名前も、喉の奥まで上がってきている気がするのに、最後の輪郭だけがつかめない。母に呼ばれた声、会社で名札を渡された日、卒業証書に書かれた文字。全部が水に濡れた紙みたいにやわらかく崩れて、ひとつに定まらない。

受話器の向こうで、いくつもの小さな息が揃って笑った。

「では、もう少しです」

電話が切れる前に、僕は玄関の向こうで足音を聞いた。ひとつではない。上の階から、下の階から、廊下の奥から、誰かが静かに集まってくる足音。靴底を引きずらない、躊躇のない歩き方だった。

覗き穴を見てはいけない。

そう思ったのに、次の瞬間には、僕はそこへ目を押し当てていた。

廊下には誰もいなかった。

ただ、向かいの壁に、黒い文字がびっしりと書かれていた。油性ペンで、同じ文が隙間なく重ねられている。

いますか
いますか
いますか
いますか

その列のいちばん下、まだ乾いていない文字で、最後の一行だけが違っていた。

――ここに、いましたか

気づくと、ドアの内側にもチェーンにも鍵にも、見覚えがなかった。部屋の間取りまで少しずつ違う。靴箱の上の写真立てには知らない家族が写っていて、冷蔵庫には見たことのないメモが貼られている。けれど不思議と、そのどれもが前からそこにあった気がした。

テーブルの上の白い電話機が、また鳴り始める。

今度は迷わず取れた。受話器は、自分の手の形にぴたりと馴染んだ。

「四一七号室です」と、僕は言った。

雨の音が、古い団地の廊下を細く長くしていく。

「……いますか」