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短編

五一二号室のただいま

解体前の団地で見つかった無記名のテープには、空室のはずの五一二号室が誰かの帰りを待ち続ける声が残っていた。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#録音#帰宅#母#残響

区役所の地下書庫は、夏でも少し寒い。

私は文化保存室の臨時職員として、解体の決まった霧ヶ丘団地から運び込まれた古い資料を整理していた。自治会だより、回覧板、祭りの写真、管理人の日誌。たまに住民が置いていった私物まで混ざる。そういうものは原則として廃棄になるけれど、録音物だけは一度データ化して内容を確認する決まりだった。

その日、段ボール箱の底から、透明のケースに入ったマイクロカセットが一本出てきた。ラベルは剥がれ、ケースには油性ペンで「五一二」とだけ書かれていた。

五一二号室。

団地の部屋番号だろうと思った。再生機に入れると、最初は何も聞こえなかった。テープの擦れる、あの乾いた音だけが続く。故障かと思って止めかけ、念のためヘッドホンの音量を上げたところで、私は手を止めた。

遠くで、エレベーターの扉が閉まる音がした。

続いて、子どもの声が小さく入った。

「ごいち、たなべさん」

そこで一度、間が空く。

それから、女の声がごく近くで囁くように言った。

「おかえり」

子どもはまた別の名前を読む。

「ごに、いしいさん」
「おかえり」
「ごさん、みやたさん」
「おかえり」

古びた集合住宅の廊下を、子どもが表札を読み上げながら歩いている。そんな、ただそれだけの録音だった。けれど女の声は、毎回同じ抑揚で、同じ親しさで、「おかえり」と返した。

不思議なのは、その調子だった。

歓迎しているというより、確認しているように聞こえた。帰ってきたことを喜ぶのではなく、戻ってきた事実にそっと印をつけるような声音だった。

私は管理台帳を引っ張り出して、霧ヶ丘団地五一二号室の入居記録を確かめた。古い台帳は紙が湿気を吸って波打っている。転出入の欄を指で追っていくと、十八年前の春、三か月だけ住んでいた世帯の名前が目に入った。

榊原美弥、同居者一名。

榊原は、母の姓だった。

私は思わず台帳を閉じた。地下書庫の蛍光灯が、じ、と鳴っていた。榊原という姓は珍しくない。そう自分に言い聞かせても、指先の熱だけが引かなかった。

母は私が小学校に上がる前にいなくなった。事故でも失踪でもない。出ていったのだと、後で親戚に聞かされた。私はそのころ何度も引っ越していたせいで、住んでいた場所の記憶が曖昧だった。団地の細い廊下、夕方の西日、どこかで煮えている味噌汁の匂い。そういう断片だけが、古い布の繊維みたいに頭の隅へ残っている。

もう一度、私はテープを再生した。

子どもの声が、五一一まで名前を読み上げる。

そして、少し息を吸って、最後にこう言った。

「ごいちに、さかきばらさん」

女の声は、今までよりはっきりと近くで答えた。

「おかえり、みお」

誰も知らないはずの呼び方だった。

澪、と名前をそのまま呼ばれることはあっても、あの声は幼い私に向けるように、語尾をほんの少し丸めていた。母がそうしていたことを、私は聞いた瞬間に思い出してしまった。

その日の業務が終わってから、私は霧ヶ丘団地へ向かった。立入禁止になる前の最終週で、保存室の身分証があれば入館できた。解体準備のため共用灯の半分は消されていて、建物は夕暮れの中で、もう人が住むための顔をしていなかった。

五号棟のエレベーターは止まっていたので、私は階段で五階まで上がった。踊り場ごとに風が滞って、古い壁紙の糊みたいな匂いがした。廊下の表札はすべて外され、長方形の薄い跡だけが並んでいた。名前がなくなった扉は、どれも同じ顔に見えた。

五一二号室の前に立つと、郵便受けの口だけがわずかに開いていた。中は空なのに、誰かが覗いているような黒さがあった。

鍵を回して入ると、室内は拍子抜けするほど普通だった。畳は剥がされ、壁のカレンダー跡もない。流し台の前に立つと、自分の呼吸が部屋の隅で静かに反響した。

私は持ってきた再生機を床に置き、テープを回した。

エレベーターの音。
子どもの足音。
名前を読む声。

録音の中の廊下と、いま私が立っている場所が、薄い紙を重ねたようにぴたりと合った。五一〇、五一一。そこで私は、部屋の外から、何かを引きずるような微かな音を聞いた。誰かが廊下を歩いている。

テープの中の子どもの声が、最後の部屋番号を読む。

「ごいちに、さかきばらさん」

女の声が返す。

「おかえり、みお」

それで終わるはずだった。

けれどテープは止まらなかった。

しばらく無音が続き、その後に、鍵の回る音がした。金属の乾いた響き。ついさっき私が鳴らしたのと、同じ音だった。続いて、ドアが開き、私の靴底がたたきに触れる音がする。録音の中の私は、いまの私と同じように、部屋の中で一歩だけ立ち止まった。

ありえない、と思った瞬間、ヘッドホンの向こうで女の声が言った。

「ただいまを言いそびれると、この部屋は待ちつづけるの」

それは説明ではなかった。独り言のようで、言い聞かせるようで、長いあいだ誰にも届かなかった言葉のようだった。

廊下の引きずる音が、私の部屋の前で止まった。

私は再生機をつかみ、玄関へ下がった。覗き穴は塞がれていて外は見えない。ドアのすぐ向こうに、気配だけがある。息遣いは聞こえないのに、そこに立っているものの沈黙だけが、扉一枚分の厚みを持っていた。

ヘッドホンの中で、子どもの声がひどく小さく笑った。

それは私の声だった。

私はドアを開けず、鍵もかけず、そのまま廊下を走った。背中の後ろで何かが追ってくる音はしなかった。ただ、五階の廊下じゅうの空室から、時間差で、いくつもの「おかえり」が漏れた。畳のない部屋、カーテンのない窓、誰の名前も残っていない玄関から、それぞれに少し違う声で。

下まで降りても、その声は耳の奥に残っていた。

翌日、私は書庫でデータ化した音声ファイルを確認した。昨夜保存したはずの長さより、四十三秒長くなっていた。編集履歴はない。再生すると、最後に新しい音が足されていた。

私の息。
自宅の階段を上る音。
バッグから鍵を探す癖のある、あのがさがさという手つき。
そして、玄関の前で私自身の声が、聞き慣れない静かな調子でこう言う。

「いま帰る」

その夜、アパートに戻った私は、ドアの前でしばらく立ち尽くした。言わなければならない気がしたし、言ってはいけない気もした。

沈黙のまま鍵を差し込んだとき、ドアの向こうではなく、足元から衣擦れのような音がした。

見ると、脱ぎっぱなしにしていたはずの昨日の靴が、きれいに揃え直されていた。

誰もいない廊下の奥から、母の声によく似た、でもそれより少し乾いた声がした。

「おかえり」