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短編

表札のない部屋

雨の続く団地で、空室のはずの隣室から自分の名を呼ぶ声が聞こえはじめる。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#隣人#表札#雨#孤独

その団地に越してきたのは、雨の多い六月だった。

四階のいちばん端、四〇七号室。廊下の手すりは白く塗られているのに、どこか永く濡れていたもののように鈍く光っていた。部屋は古かったが、ひとりで暮らすには十分だった。引っ越しを手伝ってくれた会社の同僚は、エレベーターのない建物にうんざりした顔をしていたが、私はむしろ気に入っていた。階段を上るたび、自分が少しずつ他人の生活から離れていくように思えたからだ。

隣の四〇八号室は空いている、と不動産屋は言った。
「しばらく入ってないです。静かですよ」
たしかに玄関脇の表札差しには何もなく、郵便受けにもテープが貼られていた。

最初の一週間、私は静かな生活を楽しんだ。朝は早く出て、夜は遅く帰る。帰宅すると廊下の蛍光灯がいつも一秒ほど遅れて点いた。その白い明滅のあいだだけ、四〇八号室の扉の前に誰か立っていたような気がすることがあったが、灯りがつけばそこには何もない。私は疲れているのだと思うことにした。

異変らしい異変があったのは、雨脚の強い金曜の夜だった。

午前一時を過ぎて、ようやく食器を洗い終えたころ、壁の向こうから小さく、こつ、こつ、と音がした。隣室との境の壁だ。釘で軽く叩くような音だった。古い建物だから、配管の伸縮かもしれない。そう考えて、私は電気を消した。

すると、また鳴った。こんどは三回。
こつ、こつ、こつ。

規則的だった。ためしに私も壁を指で二回叩いてみた。すると、すぐ向こうから二回返ってきた。

私はしばらく壁を見つめた。
空室のはずなのに、という考えより先に、なぜか礼儀正しい相手だな、と思った。

その夜はそれで終わった。

それから数日、私は帰宅するたび、壁越しの音を待つようになった。向こうは決まって深夜にだけ、控えめに合図をしてきた。私が二回叩けば、向こうも二回。三回なら三回。ふざけて不規則に叩いてみても、少し遅れて、きちんと真似をする。姿の見えない相手と、壁一枚を隔てて会話未満のやりとりをしていると、不思議と部屋の狭さが気にならなくなった。

月曜の朝、出勤前に玄関を開けると、四〇八号室の表札差しに白い紙が入っていた。

細長いメモ用紙だった。そこに鉛筆で、薄く、私の名前が書いてあった。

——佐伯。

私はしばらくそれを見ていた。自分の表札を見間違えたのかと思ったが、私の部屋は四〇七号室だし、四〇八号室の紙であることは間違いなかった。紙を引き抜こうとしたとき、背後で誰かが咳払いをした。

振り返ると、向かいの四〇五号室の老女が、買い物袋を提げて立っていた。
「あら」
老女は紙を見て、それから私を見た。
「入れたの」
「いえ、違います」
「そう」
彼女は一歩だけ近づき、声をひそめた。
「そこ、名前を書くんですよ。書かないと、中に入れないから」

何に、とは聞けなかった。
老女はそれ以上何も言わず、鍵を回して自分の部屋へ入っていった。扉が閉まるぎりぎり、内側から鎖の掛かる音がした。

その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。帰宅してすぐ管理会社へ電話したが、営業時間は終わっていた。仕方なく、私は例の紙を自分の部屋に持ち込んだ。鉛筆の字は弱々しく、まるで書き慣れていない子どもの筆跡のようでもあり、震える老人の字のようでもあった。

深夜二時、壁が鳴った。

こつ、こつ。
私は返事をしなかった。
こつ、こつ、こつ。
なおも続く。

「誰ですか」

思わず口に出すと、音が止んだ。静寂のなかで、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。聞こえていたのだろうか。壁に耳を当てると、何もない。私は息を止めた。すると、ごく近くで、壁ではなく、玄関の外から、声がした。

「佐伯さん」

低くも高くもない、湿った声だった。男とも女ともつかない。年齢もわからない。ただ、久しぶりに名前を使う人の、少しぎこちない響きがあった。

私は凍りついたまま、玄関を見た。

「佐伯さん、書いて」

覗き穴に目を当てる勇気がなかなか出なかった。ようやく覗いたとき、廊下には誰もいなかった。蛍光灯が白く滲んでいるだけで、四〇八号室の前には濡れた傘も、影もない。

ただ、表札差しの白い紙が、さっきより奥まで差し込まれているのが見えた。

翌朝、管理会社に電話すると、若い男が応対した。
「四〇八号室ですか。ええ、空室です」
「でも、夜に物音がして」
「古いですからねえ」
「表札に私の名前が」
「前の入居者のいたずらかもしれません」
「前の入居者?」
受話器の向こうで、ほんの短く沈黙があった。
「半年前に退去されています」

それ以上は、個人情報なので、と言われた。

その夜、私は紙を四〇八号室の表札差しに戻した。自分の名前がそこにあるのが、どうにも気味悪かったからだ。すると、戻したはずの紙は、翌朝には私の郵便受けに入っていた。二つに折られ、裏側に新しく文字が加わっていた。

——ちがう
——ここに

そこまで読んだとき、背後でまた老女の声がした。
「まだ帰ってないのね」
向かいの部屋の扉がわずかに開いて、細い目だけが覗いていた。
「誰がですか」
「前の人」
老女は答えた。
「名前を置いていったの。あの部屋に」
「意味がわかりません」
「わからないほうがいいわ」
目だけが少し笑ったように見えた。
「でも、呼ばれたなら早いもの勝ち。あなた、ひとりでしょう」

扉は静かに閉まった。

その日から、私は帰宅するのが遅くなった。駅前で時間をつぶし、終電に近い電車で戻る。けれど、どんなに遅くしても、四階の蛍光灯は私を待っているように一秒遅れて点き、その白い光の下で、四〇八号室の表札差しだけが妙にはっきり見えた。

ある夜、ついに我慢できず、私は四〇八号室のドアノブを回した。

鍵はかかっていなかった。

扉は音もなく開いた。部屋のなかは暗く、かすかに湿った畳の匂いがした。カーテンのない窓から、向かいの棟の灯りがぼんやり差し込んでいる。家具は何もない。ただ、奥の壁いっぱいに、無数の紙が貼られていた。

すべて、名前だった。

ボールペン、鉛筆、赤いマジック、子どもの字、達筆な字。びっしりと人の名前が書かれ、何枚も重なり合い、古いものは湿気で波打っていた。紙の端がめくれるたび、下から別の名前が現れた。見覚えのある名字も、ない名字もある。

その中央に、小さな空白が一つだけ残っていた。

私は息をのんだ。その空白に、すでに薄く下書きのような線がある。佐伯、という形になりかけている。

背後で、玄関の扉が閉まった。

振り返ると、誰もいない。なのに、たしかに閉まる音がした。部屋の空気がゆっくり重くなる。耳の奥で、これまで壁越しに聞いていたノックが鳴り始めた。四方の壁から、天井から、床から。

こつ、こつ。
こつ、こつ、こつ。

「やめてください」

声が震えた。
「帰ります」

すると、すぐ近くで、あの湿った声がした。

「もう帰ってるでしょう」

どこから聞こえたのか、わからなかった。自分の口のなかから響いたようにも思えた。

私は玄関へ走った。だが扉は開かなかった。鍵も鎖もないのに、外側から押さえつけられているみたいだった。夢中でノブを回し続けたとき、ふと、郵便受けから差し込む細い光が足元に伸びているのに気づいた。

その光の中に、紙が一枚、するすると入ってきた。

白い紙だった。何も書かれていない。けれど私は、そこに何を書くべきか知っている気がした。書けば楽になる、と、誰かが肩越しに囁く。書けば部屋は静かになる。書けば、次に来る人が、壁を叩いてくれる。

私は紙を踏みつけ、目を閉じた。しばらくそうしていると、ノックが止んだ。声も消えた。気づけば扉はあっさり開き、私は廊下に転がり出ていた。

翌朝、管理会社に連絡し、私は一週間で退去することを決めた。違約金がかかっても構わなかった。荷造りはすぐ終わった。ものの少ない暮らしでよかったと思った。

最後の日、段ボールを抱えて玄関を出ると、四〇八号室の表札差しに、また白い紙が入っていた。

今度は何も書かれていない。まっさらだった。

私は見ないふりをして階段へ向かった。下へ降りる途中、四階から、こつ、こつ、と控えめな音がした。誰かが壁越しに返事を待っている音だった。若い母親が子どもの手を引いて上ってくるのとすれ違った。子どもは四階を見上げて、無邪気に言った。

「ねえ、あそこ、だれかよんでる」

母親は笑って聞き流し、私も立ち止まらなかった。

団地を出てから三か月経つ。新しい部屋は駅に近く、乾いていて、壁も厚い。それでも夜更け、うとうとしかけたころ、隣の部屋との境目から、こつ、と小さな音がすることがある。

一回だけ。

返事をしなければ、それ以上は続かない。
だから私は、眠ったふりをする。

ただ、郵便受けを開けるたび、白い紙が一枚ずつ増えていく。
まだ何も書かれていない紙だ。
けれど雨の日だけ、いちばん上の一枚に、薄く私の名前が浮かぶ。

まるで、誰かが向こう側から、なぞっているみたいに。