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短編

返事のない部屋

電話線のない部屋で点滅する留守番電話は、毎晩ひとつ先の夜を録音し、返事をした者の名前を塗り替えていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#留守番電話#雨#夜#名前

その団地は、夜になると廊下の奥行きが少しだけ長くなる。

引っ越して三日目の夜、私はそれに気づいた。昼に測ったわけでもないのに、帰宅してエレベーターを降り、蛍光灯の白いゆらぎの下を歩くと、部屋までの距離が、毎晩ほんの数歩ぶんだけ増えている気がした。古い建物にはそういう錯覚がある。壁紙の継ぎ目や、湿気を含んだコンクリートのにおいが、時間の感覚を曇らせるのだと自分に言い聞かせた。

部屋は五階の角だった。前の住人が残していったものは少なく、台所の吊り戸棚に、小さな留守番電話がひとつあるだけだった。黄ばんだプラスチック製で、再生ボタンの文字がほとんど消えかけている。電話線はつながっていない。コンセントだけが差さっていて、赤いランプが規則正しく点滅していた。

管理人は「ああ、それね」と言って笑った。

「捨ててもいいけど、なんか皆、そのままにするのよ」

なぜ、と聞くと、管理人は箒の先で廊下の砂を寄せながら、答えにならない答えを返した。

「夜に鳴ると嫌でしょう」

その夜、私は酒を飲みながら、本棚の代わりに段ボールを積み上げていた。ふと、台所のほうで小さな電子音がして、赤いランプの点滅が速くなっているのに気づいた。新着メッセージが一件、という表示だった。

ありえない、と思いながら再生ボタンを押した。

最初に、遠くでエレベーターの開く音がした。
次に、濡れた靴底が廊下を歩く、ぺたり、ぺたりという音。
鍵束の触れ合う金属音。
私の部屋の前で立ち止まる気配。
それから、女の声が小さく言った。

「山内さん、まだ住んでますか」

そこで録音は切れた。

私はしばらく動けなかった。山内という名前に心当たりはない。表札はまだ空欄のままで、私の名字はどこにも出していなかった。前の住人だろうと思ったが、その声には、誰かを訪ねる遠慮よりも、帰宅した家族に確認するような馴れた響きがあった。

嫌な気分を振り払うために風呂へ湯をため、時計も見ずに本を読みはじめた。しばらくして、廊下の向こうでエレベーターの扉がひらく音がした。

ぺたり、ぺたり、と濡れた足音。
鍵束のかすかな触れ合い。
私の部屋の前で止まる気配。

呼吸を止めると、ドア一枚向こうから、録音と寸分違わぬ声がした。

「山内さん、まだ住んでますか」

覗き穴を見た。誰もいなかった。白く曇った丸い視界の下のほうに、水が一筋、横切っただけだった。

翌朝、ドアの外には、細い髪の毛が一本、しっとり張りついていた。

その日から、留守番電話は毎晩一件ずつ、翌夜の音を録音した。

雨の降る前の湿った風。
隣室の赤ん坊が夜泣きする声。
遠くで救急車が曲がるサイレン。
私が台所でコップを落として、舌打ちする音。

必ず、まだ起きていないことが入っていた。そして、必ず最後に、あの女の声が混じった。

「山内さん」
「起きてますか」
「爪、伸びましたね」
「ここ、まだ暗いですね」

言葉は少しずつ近くなっていった。三日目には玄関の前、五日目には鍵穴の向こう、七日目には、録音のなかでその息づかいが、もう部屋の内側にいるみたいに近かった。

私は管理人に前の住人のことを尋ねた。すると、表情を曇らせた。

「山内さんっていう人がいたのは、もうだいぶ前よ。ひとり暮らしの男の人。ある日いなくなったの。荷物も半端に残して。次に入った人も、その次も、長くは住まなかった」

「女の人は?」

「女なんて聞いたことないわ」

管理人は視線をそらし、最後にだけ、やけに丁寧な声で言った。

「夜中にノックされても、返事しないことね」

その晩のメッセージには、初めて私の声が入っていた。

無音が長く続いたあと、再生機の雑音にまじって、押しつぶしたような囁きが聞こえた。

「返事をするな」

自分の声だった。驚くより先に、耳の奥が冷えた。未来の私が残した忠告なら、それに従うべきだと思った。理由はわからなくても、少なくともこの数日、留守番電話だけは嘘をつかなかった。

私は玄関のチェーンをかけ直し、ドアポストにガムテープを貼り、テレビも消して、部屋の真ん中でじっと夜を待った。雨の予報が出ていた。窓ガラスに、まだ降り出していない水の気配だけがぬるく張りついていた。

午前二時を少し回ったころ、留守番電話の赤いランプがひとつ、ひとつと弱く点いた。

その直後、廊下でエレベーターが止まった。

ぺたり、ぺたり、と濡れた足音が近づく。
私の部屋の前で止まる。
ノックが三回。乾いた、遠慮のない音。

私は口を閉じたまま、息だけで数を数えた。

四つ、五つ、六つ。

沈黙のあと、女の声がした。今まででいちばん近い、ほとんど私の肩越しで喋るような声だった。

「お母さんからって言えば、返事をくれると思ったのに」

喉がひきつった。

母は去年死んだ。病室で、最期に電話してきたとき、私は会議中で出られなかった。あとで履歴を見て、かけ直したときには、もうつながらなかった。

ノックがもう一度。今度はやわらかい。

「いるでしょう」

母の言い方に似ていた。食卓の向こうから、名前を呼ばずに私を見抜くときの、あの静かな調子に。

返事はしなかった。
したつもりは、なかった。

長い沈黙があって、やがて足音は廊下の奥へ遠ざかった。雨が降りはじめたのは、そのあとだった。窓に斜めの筋が走り、建物全体がようやく本来の重さを取り戻したように静かになった。

私は朝まで眠れず、夜が薄くなるのを待って、留守番電話の再生ボタンを押した。

エレベーターの音。
足音。
ノック。

そして、女の声。

「お母さんからって言えば、返事をくれると思ったのに」

そこまでは昨夜のとおりだった。

次に、短い息を吸いこむ音が入った。
私の声が、はっきりと続いた。

「……はい」

自分でも覚えのないほど、幼い返事だった。
母に呼ばれたときだけ使っていた、昔の声に近かった。

録音のなかで、チェーンの擦れる音がした。
私は昨夜、たしかにチェーンには触っていない。

金具が外れ、ドアがひらく。
雨のにおいが部屋へ流れこむ。
そこで初めて、女は嬉しそうに笑った。

「やっぱり、まだ住んでた」

そのあと、少し間があいて、女はすぐ耳もとで囁いた。

「じゃあ、今日から山内さんね」

録音は、そこで終わった。

私はすぐ玄関へ走った。チェーンは、たしかに掛かっていた。ガムテープも剥がれていない。ドアも閉まっている。なのに、たたきには細長い水の跡が二本、部屋の奥へ向かって伸びていた。裸足の足跡ではなかった。何かを引きずったような、ためらいのない筋だった。

その夜から、留守番電話のランプは、何もないのにときどき点滅するようになった。

再生しても無音ばかりだ。だが無音の奥で、じっと耳を澄ますと、誰かが部屋のなかを歩く衣擦れに似た音がする。押入れの襖の向こう、あるいは流し台の下、もっと近ければ、私の背後の、振り向いたらいけないあたりで。

さっきも、ポストに入っていた回覧板に、部屋番号の横へ鉛筆で名字を書こうとして、手が止まった。

自分の名字は知っている。
知っているはずなのに、最初の一画がどうしても出てこない。

かわりに、指先が湿った紙の上を勝手にすべって、
見覚えのない二文字をゆっくり書いた。

山内。

その瞬間、台所で、電話線のつながっていない留守番電話が、小さく応えた。

「はい」