短編
最後の一本
閉店する傘修理店に戻った娘が、父の残した一本の黄色い傘を通して、言えなかったことの続きを受け取る話。
父の店を片づけるために商店街へ戻った朝、空はきれいに曇っていた。雨はまだ落ちていないのに、通りの色だけが先に濡れて見えた。
店の看板には「久我傘修理店」と薄く金文字が残っていた。子どものころは、雨の日になるとその文字が少し誇らしかった。いまは錆びたシャッターの筋に指を入れ、重さを受け止める自分の腕だけが現実だった。
父の葬儀から十日。大家には月末まででいいと言われていた。店の奥には骨組みだけになった傘、交換用の露先、糸巻き、布見本、古い帳面がきちんと並んでいた。父は片づけ下手ではなかった。むしろ、きちんとしすぎていた。私に言えなかったことまで、たぶんどこかの引き出しにしまってしまうくらいには。
レジ横の棚に、大学ノートが十数冊積んであった。開くと、日付と天気と降水量、その横に客の名前と修理内容が小さな字で並んでいる。
六月三日 小雨
骨二本交換 高橋
ボタン付け直し 遠藤
貸傘一 本田、返却済
七月十九日 夕立
中学生 透明傘、応急処置のみ 代金いらず
駅前で転倒した人に黒傘一本
商売の記録というより、町がどれだけ濡れたかの記録に見えた。
「ほんと、最後まで変わらない人だったねえ」
背後から声がして振り向くと、向かいのクリーニング店の奥さんが立っていた。手に缶コーヒーを二本持っている。
「差し入れ。冷えてないほうがよかった?」
「いえ、ありがとうございます」
私は一本を受け取った。奥さんは店内を見回し、少しだけ目を細めた。
「お父さん、この店で待ってるみたいだったからねえ」
「何をですか」
「帰ってくる人を」
笑って言うにはまっすぐすぎる声だった。
私はノートを閉じた。聞こえないふりをしたかったが、商店街は昔から逃げ場が少ない。
八年前、私がこの町を出た日も雨だった。駅まで送ると言ったのは母で、父は店先で骨の曲がった番傘を直していた。昼前から降り出した雨で、修理の持ち込みが急に増えたのだ。
「一本だけだから」
父はそう言った。客の傘を持つ手を止めないまま。
私はスーツケースを引きながら、「店のほうが大事なんだ」と言った。父は顔を上げたが、何も言わなかった。その無言が腹立たしくて、私は振り返らなかった。
それきりだった。
東京で仕事を始めて、忙しいことを言い訳に帰省を先延ばしにした。父から年に一度だけ届く梨にも、短い礼しか返さなかった。葬儀の連絡を受けて駅に着いたとき、雨はあの日と同じように昼前から降っていた。
「そうだ、見た?」
奥さんが店の隅を指さした。傘立てに、一本だけ明るい色が立っている。黄色い長傘だった。布地は新しく張り替えられ、石突きも磨かれている。柄の木目だけが古かった。
「それ、ずっと置いてあったの。誰にも貸さないし、売らないの」
「どうして」
「さあ。でも、お父さん、たまに言ってたよ。肩を濡らすのが嫌いな子がいるからって」
私は思わず近づいた。柄のいちばん下に小さな傷がある。小学校のころ、私がアスファルトに引きずってつけたものだ。
奥さんは何も足さずに帰っていった。店に残ったのは、時計の音と、まだ降り出さない雨の匂いだけだった。
夕方近く、空が耐えきれなくなったみたいに、急に大粒が落ちてきた。シャッターの外が白く煙った。私は段ボールに古い帳面を詰め、工具を分け、捨てるものと残すものを無言で決め続けた。
そのとき、戸口のベルが鳴った。
振り返ると、制服姿の女の子が立っていた。中学生くらいだった。手にした透明傘は骨が一本裏返り、ビニールが裂けている。ずぶ濡れの前髪が額に貼りついていた。
「あの、すみません。ここ、もう閉まってますよね」
店じゅうを見てから言うあたり、気を遣う子だった。
「閉めるところだけど、入って」
女の子は遠慮がちに一歩入った。床に雨粒が丸く落ちる。
「近くのコンビニで傘買おうと思ったんですけど、売り切れてて。駅まで歩くと、たぶん教科書が全部だめになるなって」
私は彼女の傘を受け取った。父ならどう見ただろう、と一瞬考えて、それから自分の指を見た。露先を差し込み、曲がった骨を戻し、糸を引く。ぎこちないが、できないわけではなかった。子どものころ、父の隣で何度も見ていたのだ。
「少し待って」
工具箱の中からペンチを探す。金具が噛み合う小さな音がした。雨は店先で勢いを増している。女の子は濡れた靴下のまま、じっと作業を見ていた。
「すごい」
「全然。見よう見まねだから」
応急処置を終えた傘を開くと、どうにか形になっていた。でも、また強い風が吹けば同じところがだめになるだろう。
私は傘立ての黄色を見た。
父が残していた最後の一本。たぶん私のための一本。帰ってきたら困るだろう、という、それだけの理由で置き続けていた一本。
私はそれを抜き取り、女の子に差し出した。
「こっちを使って」
「え、でも」
「返さなくていい。古い店の在庫だから」
嘘ではなかった。女の子は困ったように私と傘を見比べ、やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
黄色い傘をひらくと、店の薄暗さの中で小さな灯りみたいに見えた。女の子は戸口で一度振り返り、「助かりました」と言って雨の中へ走っていった。通りの灰色の上を、黄色だけがゆっくり遠ざかっていく。
私はしばらくその背を見ていた。
胸の奥に、長く置き去りにしていた言葉が、ようやく濡れながら動き出すのがわかった。あの日、駅へ向かう私の背中を、父は店先から見ていたのかもしれない。呼び止める代わりに、戻ってきたとき困らないように、一本だけ残して。
それは謝罪ではなかったし、弁解でもなかった。ただ、その人にできるかたちの心配だった。
閉店作業を終え、私はシャッターを半分下ろした。帳面の最後のページを開く。父の字で、亡くなる三日前の日付があった。
小雨
貸傘一 未返却でよい
それだけだった。
私はレジの横にあった鉛筆を取り、その下に一行だけ書き足した。
大雨
最後の一本 たしかに渡した
店の灯りを消すと、雨音が少し近くなった。傘はもうなかったが、不思議と濡れる気はしなかった。私はシャッターを下ろしきり、鍵を回してから、誰もいない通りへ出た。商店街の屋根の切れ目から雨が落ちてくる。その下を、肩をすぼめずに歩いた。