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短編

先に帰る声

毎晩帰宅の少し前に鳴る部屋の留守電には、まだ家に着いていないはずの「私」の声が残されていた。

Genre
ホラー
Series
単発
#怪談#短編#アパート#声#帰宅

その留守番電話に最初のメッセージが入っていたのは、雨の火曜日だった。

会社を出たのは二十二時を過ぎていて、最寄り駅からアパートまでの道は、コンビニの白い明かり以外ほとんど色を失っていた。古い二階建ての木造アパートで、廊下は外にむき出し、雨の日はどの部屋の前も湿った新聞紙みたいな匂いがした。

私は一〇三号室の鍵を開け、暗い玄関で傘をたたみ、靴を脱いでからようやく、赤い点滅に気づいた。

固定電話の留守電ランプだった。

いまどき珍しいと友人には笑われるが、母が「携帯が繋がらないときに困るから」と勝手に契約を残したままにしていて、私は面倒で解約していなかった。ふだんは営業電話ばかりで、メッセージが入ることなど月に一度もない。

再生すると、ざり、と小さなノイズがして、それから声がした。

『……ただいま』

私の声だった。

受話器を置くときのような乾いた音がして、そこで切れた。

部屋の中はしんとしていた。冷蔵庫のうなりだけがやけに近く聞こえる。仕事で疲れていたし、誰かの悪戯にしては悪趣味すぎると思ったが、雨に濡れた肩が急に冷えて、私はその晩、電話線を抜いて寝た。

翌朝には、少し笑える話に変わっていた。自分で無意識に吹き込んだのを忘れていたのかもしれない。残業続きで記憶が曖昧になることはある。

だが、その日の夜も、帰宅するとランプが光っていた。

『ただいま。傘、どこ置こう』

また私の声だった。

背景に、玄関ドアの蝶番の軋む音まで入っていた。

私は傘立てを持っていない。濡れた傘はいつも玄関のたたきの隅に寝かせる。なのに録音の中の私は、たしかに困ったようにそう言った。知らない部屋に帰ってきた人間のような、ためらいのある声だった。

気味が悪くなって、管理会社に電話をした。盗聴とか、電話線の混線とか、そういうことはないかと訊くと、若い男の事務的な声が「設備は古いですけど、そういう報告は聞いてませんね」と答えた。ついでに、一階の廊下灯が切れているのも伝えると、「今週中には」と言ったきり、灯りはしばらく直らなかった。

三日目、私は駅前でわざと時間をつぶし、二十三時半すぎに帰った。できるだけ足音を殺して階段を上がり、途中で自分の部屋の前を遠目に見た。暗い。誰もいない。

それなのに、部屋に入ると留守電が点滅していた。

『遅かったね』

そう言って、くす、と息を含んだ笑い声が入っていた。

私はその場で受話器を壁から外しかけた。けれど、指先が震えてうまくできなかった。耳の奥で、自分の声のあの親しげな調子だけがいつまでも残っていた。誰に向かって言ったのか、録音の中の私は知っているらしかった。

翌日から、私は帰宅前に一度、自分の携帯から固定電話へかけることにした。呼び出し音が鳴れば、少なくとも部屋は無人だと思いたかったのだ。

最初の二日は、それで少し安心できた。コールは長く鳴り、誰も出なかった。部屋に帰っても新しい録音はない。

三日目の夜、いつものように駅の改札を出たところで電話をかけた。耳に当てたまま歩く。呼び出し音が一回、二回、三回。

四回目で、繋がった。

思わず立ち止まった。

無言だった。雑音だけがある。しばらくして、かすかに衣擦れの音がして、それから、聞き慣れた息遣いがした。

『……もしもし』

私の声だった。

受話器の向こうで、私がそっと囁いた。

『いま、どこ?』

ぶつりと切れた。

その晩、私は部屋に戻れなかった。駅前のビジネスホテルに泊まり、ほとんど眠れずに朝を迎えた。仕事を休む理由を考える余裕もなく、ただアパートのことだけが頭に張りついていた。

昼になってからなら少しはましだろうと、自分に言い聞かせて部屋へ戻った。夏に近い陽射しが木の廊下を白く照らしていて、昨夜のことが嘘のようだった。

ポストに、折れたメモ用紙が入っていた。

「夜分にお電話鳴ってましたよ
昨日は女性の声で
ご家族ですか
二〇三 宮本」

震える手でそれを読み、私ははじめて、自分以外にも聞こえていたのだと知った。二〇三の宮本さんは、会えば軽く会釈する程度の、痩せた老婦人だった。夕方によく廊下を掃いている。私は階段を上がり、呼び鈴を押した。

宮本さんはすぐに出た。私の顔を見ると、少し言いにくそうに口元を曇らせた。

「変なこと書いてごめんなさいね。でも、気になって」
「いえ……あの、どんな声でしたか」
「若い女の人。あなたに、よく似た」

似た、ではなかったのだろう。老婦人の遠慮がその言葉を選ばせただけで、たぶん同じ声だった。

「前からたまに聞こえてたのよ。あなたが帰ってくる少し前に、下で鍵を開ける音がして、それから“ただいま”って。最初は、あなたがもう帰ってるのに、またすぐ出ていくのかと思ってた」
「前から、って」
「春先くらいからかしら」

私は春先にこの部屋へ越してきた。

その瞬間、喉の奥がひどく冷たくなった。越してきてから、ではなく、越してくるのと同時に始まっていたのだ。

宮本さんは言いにくそうに続けた。

「でもね、ここ数日は変なの。あなたがまだ帰ってこない時間に、部屋の窓に影が動くのよ」
「誰かいるってことですか」
「わからない。ただ、カーテン越しに、行ったり来たり」

私は礼もそこそこに階下へ降り、自分の部屋の鍵を差し込んだ。金属のひやりとした感触が、やけに生々しかった。

部屋はいつも通りだった。六畳の和室、安いカーテン、小さな流し台。なのに、誰かが私の不在のあいだ静かに座っていた気配だけが、抜けずに残っているようだった。座布団は使わないのに、畳の一箇所だけがわずかにへこんで見えた。

固定電話のランプが、赤く点滅していた。

私はしばらく見つめてから、再生ボタンを押した。

ざり、とノイズ。

『おかえり』

私の声だった。けれど、これまでとは違って、ひどく自然だった。録音の向こうの私は、長く待っていた相手に、ようやく会えたみたいな声でそう言った。

『もう、間違えないから』

そこで切れた。

何を、と考えた瞬間、玄関の外で、鍵の触れ合う音がした。

かちゃ、と金属がかすれる。

私は凍りついた。私の鍵は今、手の中にある。なのに外から、私の部屋を開けようとする音がする。古い鍵穴の癖を確かめるみたいに、ゆっくり、何度も。

のぞき穴へ駆ける勇気はなかった。ただ、玄関と和室のあいだに立ち尽くしていた。

数秒後、扉の向こうで、私が小さく息を吐いた。

『……ただいま』

昨夜まで留守電の中でしか聞こえなかった声が、木の一枚向こうで、はっきりと聞こえた。

私は動けなかった。悲鳴も出ない。ただ、電話機の赤いランプだけが、規則正しく点滅していた。まるで、いま録音が始まっているみたいに。

外の私は、扉の前でしばらく黙っていた。帰ってきたのに、鍵が合わないことを不思議がっているような沈黙だった。

やがて、かすかな笑い声がした。

『そっちなんだ』

足音が、一歩、二歩、廊下を離れていった。

それきり、何も聞こえなくなった。

私は日が落ちるまで部屋を出られなかった。管理会社にも警察にも電話しようとしたが、うまく言葉にならなかった。自分と同じ声の何かが鍵を持って帰ってきた、などと話したところで、どうなるだろう。

結局、その日のうちに必要なものだけを鞄に詰め、実家へ戻った。部屋は引き払った。敷金はほとんど返ってこなかったが、それでよかった。

ただ、ひとつだけ処分し損ねたものがある。

固定電話だ。

業者が片づけに入る前日、最後に回収しようとして受話器を持ち上げたとき、留守電ランプがまた赤く光っていた。あの部屋に、もう私の荷物はほとんどなかったのに。

再生はしなかった。線を抜き、毛布に包み、段ボールに入れて、私はそのまま実家の物置へ押しこんだ。

それで終わると思っていた。

先月、母が物置を整理していて、その電話機を見つけた。懐かしいわねえと言いながら電源を入れたら、まだ録音が残っていたらしい。

夕飯の席で、母はなんでもないことのように言った。

「あんた、一人暮らしのころも、帰るとちゃんと“ただいま”って言ってたのね」

私は箸を止めた。

「なんで」
「古い留守電に入ってたの。何件も。最後のだけ聞いたけど、変なの。玄関を開ける音がしてから、あんたの声でね」

母はそこで私の顔色を見て、言葉を切った。

けれど、もう遅かった。私は、最後の録音に何が入っていたのか、聞かなくてもわかっていた。

きっと明るい昼間の声で、少しだけ安心した調子で、もうひとりの私はこう言ったのだ。

おかえり。

やっと、帰ってきたね。