短編
差入口の返事
毎夜二時十三分に郵便差入口から届く“自分の筆跡の手紙”に救われ続けた男が、最後の返事で部屋の内と外を入れ替えられる短編ホラー。
その部屋を借りたのは、家賃が相場より一万円安かったからだ。
古い五階建ての三〇二号室。廊下に面した玄関扉には、いまどき珍しい郵便差入口が付いていた。銀色だったはずの金属はくすみ、口元だけが何度も指で触れられたように鈍く光っている。管理会社の若い担当者は「今は集合ポストが下にあるので、使われてません」と笑ったが、内側から見るとその蓋には妙な存在感があった。閉じていても、向こうに誰かが口を寄せている気がするのだ。
引っ越し初日の夜、私はその音で目を覚ました。
かたん。
時刻は二時十三分。スマートフォンの青白い表示を見てから、寝ぼけた頭で、上の階の物音だろうと思った。だが、二度目ははっきりと扉からした。
かたん。しゃり。
差入口の内側に、白い封筒が半分だけ差し込まれていた。切手も宛名もない。紙は妙に湿っていて、雨に濡れた本のような匂いがした。
中には、折った便箋が一枚だけ入っていた。
――明日の朝、傘立ての右側を見て。
それだけだった。署名はない。いたずらにしては気味が悪いが、文章は妙に整っていて、癖のあるはらい方がどこか見覚えに似ていた。
翌朝、出勤前に何となく傘立てを動かした。底に、数日前からなくしていた社員証が落ちていた。引っ越しのどさくさで紛れたのだろうと思ったが、ではなぜ、そこにあると知っていたのか。
二日後、また二時十三分に封筒が来た。
――昼、駅前の横断歩道で立ち止まらないで。
その日、信号が変わる寸前に私は無意識に歩幅を速めた。背後でブレーキの音がして、配送トラックが赤に気づくのが遅れて横断歩道へ鼻先を突っ込んだ。立ち止まっていたら、という想像は簡単だった。
三通目には、こうあった。
――冷蔵庫のいちばん下、見落としている。
見ると、前の住人が置いていったらしい薄いガラス瓶が転がっていた。黒ずんだラベルは剥がれかけていて、何が入っていたのかも分からない。もし気づかずに蹴り割っていたら、と思うとぞっとした。
私は、手紙を待つようになった。
夜が近づくと時計を気にし、二時十三分が迫ると息を潜めた。封筒は必ず一通だけ来た。どれも切手なし、宛名なし、湿った紙の匂い。内容は短く、説明はなく、けれど外れたことがない。私の忘れ物、私しか知らない古傷の痛む時間、たまたま避けたことで助かる出来事。それらが淡々と書かれている。
四通目の文面を見たとき、喉の奥が冷えた。
――左手の親指の付け根、昔ガラスで切ったところが、雨の日は少しだけ痺れるでしょう。
その傷のことは、人に話した覚えがなかった。
筆跡は、ますます私の字に似ていった。いや、似ているのではなく、私が急いで書いたときの癖そのものだった。ひらがなの「れ」の結び方、「方」という字の最後の払いが少し跳ねるところまで同じだった。
管理人室でそれとなく聞いてみると、年配の管理人は眉をひそめた。
「前に住んでた人も、似たこと言ってたねえ」
「似たこと?」
「差入口から変な手紙が入るって。女の人。結局、急に出ていったよ。荷物はかなり残したままで」
「名前は」
「たしか、槇原さん」
表札の跡を思い出した。入居した日に、削られきらなかった文字の筋を見た気がする。マ、キ、くらいまでは読めたような気もした。
その晩の手紙には、初めて私の質問への返事めいた一文があった。私は前夜、小さな紙に「誰ですか」と書いて差入口に挟んでおいたのだ。
――あなたのあとにここへいる者です。
それだけで、署名はなかった。
冗談にしては悪質だと思った。だが同時に、その文だけがひどく静かな真実味を持っていた。私のあとにここへいる者。未来の住人。そんなものを信じるつもりはなかったのに、その夜から部屋の時間が少しずつ歪みはじめた。
私の話し方が、手紙の文体に似てきた。会社のメールで「見落としている」「立ち止まらないで」といった言い回しを使っているのに気づいて、自分で気味が悪くなった。机に向かっていると、まだ書いていないはずの文字の運びが頭の中にありありと浮かぶ。差入口の金属音は、鳴る前からわかるようになった。
ある夜の手紙には、こうあった。
――机のいちばん下の引き出しは、まだ開けないで。
私は、その一文のせいで、かえってその引き出しを意識し続けた。安物の木机で、入居時から備え付けられていたものだ。いちばん下だけ動きが渋く、私はずっと空だと思っていた。
次の手紙。
――まだです。二時十三分に扉をすぐ開けないで。
その日、私は眠らずに待った。外は細い雨で、非常階段の手すりを伝う音がする。時計の数字が二時十二分から十三分へ変わる。かたん、と差入口が鳴った。
私は、指示に逆らった。
蓋が内側に押され、封筒が半分差し込まれる。その白い縁を見た瞬間、私は玄関のノブを掴み、勢いよく扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
蛍光灯が一本、低く唸っている。濡れたコンクリートの匂い。手には、差入口から抜き取ったばかりの封筒がある。封はされていない。私はその場で便箋を開いた。
――ありがとう。やっと入れた。
背後で、部屋の中の床板がきしんだ。
振り向くと、開け放したはずの玄関の向こう、私の部屋の明かりの下に、誰かが立っていた。背格好は私と同じだった。部屋着の袖の長さも、右肩が少し下がる癖も同じ。そいつは机の前に座り、まるで前からそこに住んでいたみたいに、備え付けのペンを取った。
さらさら、と紙を擦る音がする。
私は言葉もなく一歩踏み出した。そのとき、扉がゆっくりと閉まりはじめた。慌てて手を伸ばしたが、内側から静かに押し返される。見えたのは、机に向かう横顔だけだった。輪郭は私なのに、表情だけが妙に古びていた。長く湿った場所に置かれていた紙のような顔だった。
かちゃん、と内鍵が落ちた。
私は扉を叩いた。呼びかけた。三〇二号室の薄い扉は、しかし他人の家の扉みたいに無関心だった。
そのとき、足元で差入口が持ち上がった。
内側から、白い封筒が一通、するりと滑り出てきた。
震える指で開く。
――明日の朝、傘立ての右側を見て。
最初の手紙と、同じ文だった。
続けて、二通目、三通目、四通目が、内側から次々と差し出される。私を救った順番のままに。湿った紙の匂いが廊下に満ちていく。最後に、まだ見たことのない新しい便箋が出てきた。
――机のいちばん下に、これまで書いた分があります。忘れないうちに続けてください。二時十三分なら、向こうはよく届きます。
私は差入口に指をかけた。冷たい金属の向こうで、誰かがこちらと同じように蓋を押さえているのがわかった。爪の当たる位置まで、ひどくよくわかった。
雨の音が、廊下の長い先で鳴っていた。
三〇二号室の表札には、いつのまにか私の名前がなくなっていた。代わりに細い傷のような文字が浮いている。暗くてはっきり見えないのに、それがこれから何度も自分で書く名前なのだと、不思議なくらい自然に理解できた。
私は濡れた封筒を拾い集め、扉の前に座り込んだ。
二時十三分は、毎晩きちんと来る。