短編
新幹線の怪談
終電間際の新幹線で、男が遭遇した“存在しない”乗客。
東海道新幹線、最終便「のぞみ265号」は、23時ちょうどに東京駅を出発する。
杉山浩一は、終電に滑り込むようにして乗り込んだ。仕事が長引き、帰りがすっかり遅くなった。ビジネスマンらしい男たちがちらほら乗っているが、自由席車両はガラガラで、浩一は進行方向右側、三人掛けの窓側に腰を下ろした。
「はー、疲れた……」
缶ビールを開けて一口。車内は静かで、ほんのり暖かい。気が抜けて、すぐにまぶたが重くなった。
どれほど眠っていただろうか。ふと目を覚ますと、車内は相変わらず静かだった。ただ、隣の席に人が座っている。
黒いスーツに白いワイシャツ、短髪の若い男。無言で前を見ている。
浩一は戸惑ったが、眠っている間に乗ってきたのだろうと思い直し、目を閉じ直す。
だが。
――どこか、おかしい。
この新幹線、東京から新大阪まで停車駅は少ない。品川、名古屋……それにしても、こんな時間に新たに乗ってくる乗客がいるだろうか。
再び目を開けると、その男が浩一の顔をじっと見つめていた。
「……な、なんですか?」
男は答えず、ただ微笑むように唇の端を上げた。
次の瞬間、車内放送が鳴った。
『まもなく、次の駅に到着します。お出口は右側です』
駅名が告げられない。
「は?」と浩一が小さく声を漏らすと、男がぽつりと呟いた。
「降りないと、戻れませんよ」
「……は?」
その言葉に、全身の血が凍る。どこかで聞いたような、既視感。いや、違う、これは夢だろうか?
新幹線が速度を落とす。窓の外は闇。街の灯りも、ホームの明かりもない。ただ、白く浮かび上がる駅名標が見えた。
「回送」
駅名ではなく、「回送」と書かれていた。
「おい、ここ、どこだよ」
思わず立ち上がると、男がつぶやいた。
「あなた、死にかけてるんですよ」
浩一の鼓動が跳ね上がる。意味がわからない。だが、次の瞬間、激しい頭痛が襲い――視界が真っ赤に染まった。
***
目を開けると、病室だった。白い天井。機械音のリズム。点滴と、管につながれた腕。
「目を覚ました!」という声がして、看護師が走り去っていく。
医者がやってきて告げた。
「心筋梗塞でした。会社で倒れたそうです。救急搬送が早くてよかった」
浩一は呆然としながら、自分の胸に手を当てた。まだ痛みが残っている。
夢だったのか? 新幹線も、あの男も、ただの幻覚?
退院後、浩一は気になって、最終の「のぞみ265号」に乗ってみた。
同じ席。缶ビール。何も起こらない。ただ、名古屋を過ぎたあたりで、背後から誰かの声が聞こえた。
「降りないと、戻れませんよ」
驚いて振り返るが、誰もいない。
だが、座席のポケットに、小さな紙片が挟まっていた。
そこには、手書きのような字で、こう書かれていた。
「次は、あなたの番です」
震える手で紙を握りつぶしたその瞬間、再び車内放送が流れた。
『まもなく、次の駅に到着します。お出口は右側です』
今度も――駅名は告げられなかった。