短編
潮待ち便
取り壊しの決まった海辺の古いポストを片づける娘が、亡き父の残した一通に触れ、届かない言葉の居場所を知る話。
岬郵便局の裏手から、防波堤へまっすぐ伸びる細い道がある。先に立っているのは、潮風で朱色をくすませた丸いポストだ。根元は白く塩を吹き、差入口の金属は何度も波音を聞いた顔をしていた。
そのポストは、今月いっぱいで撤去されることになっていた。防潮工事の図面に、きれいな四角で「支障物」と書かれていたからだ。
朝、局長に鍵を渡されたとき、真琴は「はい」とだけ答えた。もともと集配路から外れて久しい。正式な郵便物は入らない。残しておく理由はない。そういう話だった。
けれど町の人は、そのポストをべつの名前で呼んでいた。
「潮待ち便、なくなるんだってねえ」
窓口で切手を買いながら、乾物屋の千代さんが言った。
「ええ。工事の都合で」
「困る人、いるよ」
「もう郵便としては使っていませんから」
「そうじゃなくて」
千代さんはそこで言葉を切り、小銭を掌で鳴らした。
「あれは、出せなかった手紙を入れるところなんだよ」
真琴は顔を上げたが、千代さんはもう笑っていた。冗談とも本気ともつかない、海辺の町に多い笑い方だった。
父が死んで半年になる。岬郵便局の元局長で、つい先月までその古いポストの鍵を持っていた人だ。肺を悪くしてからも、月に一度だけは防波堤まで歩いていた。真琴はそれを、昔の癖が抜けないのだと思っていた。仕事を手放せない人だったのだとも。
父とは、最後までうまく話せなかった。
見舞いに行くたび、父は病室の窓から天気を見て、「北風だから船が遅れるな」とか、「今日は配達が楽だ」とか、そんなことばかり言った。真琴が欲しかったのは、仕事の話ではなかったのに。
退院の見込みがなくなった夜、真琴はつい言ってしまった。
「お父さん、わたしに何か言うことないの」
父はしばらく黙ってから、
「ポストの下段の鍵、引き出しにある」
と答えた。
それきりだった。
腹が立って、そのあと何を話したか覚えていない。父が死んだあと、机の引き出しにはたしかに古い真鍮の鍵があり、白い封筒に入っていた。表には父の字で、ただ「潮待ち便」と書いてあった。
仕事の帰り、真琴は防波堤へ向かった。夕方の海は低く光り、テトラポッドのあいだにたまった水が、空の色をうすく返していた。ポストの前には、小学生くらいの男の子が立っていて、両手で封筒を握っていた。
「投函するの」
真琴がそう言うと、男の子はうなずいた。
「切手、いらないんだよね」
「……それは、郵便じゃないから」
「知ってる。ばあちゃんに出すの」
男の子はまっすぐに言って、背伸びをして封筒を差し入れた。口が小さく鳴った。
「届くの?」
「どうだろう」
「でも、入れたら、ちょっとだけ言えた感じする」
言い終えると、男の子は恥ずかしそうに走っていった。
真琴はポストの前にひとり残された。海から上がってくる風は冷たく、耳の裏に塩がつく。差入口に指をかけると、金属はまだ昼のぬくもりを少しだけ持っていた。
翌日、真琴は撤去前の確認としてポストを開けた。
中には、十通ほどの封筒が入っていた。どれも宛先が曖昧だった。「母へ」「201号室にいたきみへ」「先に行った犬のソラへ」。切手のないもの、便箋だけを折ったもの、海でにじんだインクのもの。
それらのいちばん奥に、輪ゴムで束ねた古い封筒があった。さらに奥、集配口の陰に指を差し込むと、金属の裏に小さな板が貼ってあり、爪で押すと外れた。隠し箱のような浅い空間があり、一通だけ封筒が入っていた。
真琴へ。
父の字だった。
その場で開けることができず、真琴は局の休憩室まで持ち帰った。湯のみの横に置かれた封筒は、ほかのどんな郵便よりも軽く見えた。
中身は便箋二枚だった。
真琴へ。
このポストはもう郵便ではない。だから、おれは中の手紙を運んでいない。読んでもいない。月の終わりに回収して、港の焼却炉で燃やしていた。勝手なことだが、なくしてしまうよりはましだと思った。
町には、宛先のない言葉を書く人がいる。死んだ相手へ、帰らない人へ、もう会わない自分へ。出しても届かないとわかっている手紙でも、投函口だけは必要なことがある。
おまえは、そういうのを甘いと言うかもしれない。たぶん、そのとおりだ。でも、おれは郵便の仕事をしていて、届く手紙ばかり見てきたから、届かない手紙のことを誰かが引き受けなければいけない気がした。
おまえにも、ずいぶん届かないことをした。
仕事の話ばかりしたのは、おれにその話し方しかなかったからだ。おまえが町を出たいと言ったとき、引き止めたかったわけじゃない。ただ、背中を押す言葉を持っていなかった。郵便局に残ったのは、おまえのためではない。おまえが残らなくていいようにだ。
もしこの手紙を読むころにも、おまえが何か言えずにいるなら、一通書け。出さなくていい。出せない手紙にも、書いた人の明日を少し軽くする役目がある。
最後の回収は、おまえに任せる。
父より
真琴は読み終えても、しばらく便箋をたためなかった。湯のみの湯気が消え、窓ガラスに夕方の色が差してきても、指先がうまく動かなかった。
父は、最後までちゃんとしたことを言わない人だと思っていた。けれど、言えなかったのではなく、言えないまま持ちこたえていたのかもしれなかった。そう思うと腹立たしさと同じくらい、遅れてくる理解が胸の奥で重くひらいた。
閉局後、真琴は一枚の便箋を取り出した。
父へ、と書いて、そこで止まった。海鳴りが遠く聞こえる。鉛筆の先が紙の上でためらう。真琴は息をついてから、病室で言えなかったことをひとつずつ書いた。怒っていたこと。寂しかったこと。郵便局の匂いが嫌いなくせに、他所の町で赤いポストを見ると少しだけ足が止まること。ほんとうは、一度くらい「行ってこい」と言ってほしかったこと。
書き終えるころには、窓の外は藍色になっていた。
その夜、防波堤に行くと、潮は満ちかけていた。真琴は回収した手紙の束と、自分の封筒を抱えてポストの前に立った。差入口は黒く、海へ続く小さな口のように見えた。
父のやり方をなぞるなら、今夜が最後だ。
けれど真琴は封筒を入れず、ポストの天辺にそっと置いた。しばらくしてから取り上げ、胸元に戻した。
「これは、燃やさないでおく」
誰に言うでもなくそうつぶやくと、波が防波堤の下で砕けた。
翌週、ポストは予定どおり撤去された。工事の人たちは手際よく、町の古い習慣にほとんど敬意も無関心も示さなかった。ただの金属の箱がひとつなくなる、それだけの作業だった。
けれど岬郵便局の片隅には、その月の終わり、小さな木箱が置かれた。真琴が裏の倉庫にあった古い仕分け箱を磨いて作ったものだ。蓋の上に、細い字で札を貼る。
潮待ち便。
郵便ではありません。宛先のない手紙のための箱です。
読みません。返事は出ません。
そう書いて、最後にもう一行だけ足した。
それでも、書いた人の明日が少し軽くなることがあります。
昼すぎ、乾物屋の千代さんがやってきて、札を読んでから真琴を見た。
「あんた、残したんだね」
「形は変わりましたけど」
「十分だよ」
千代さんは鞄から小さな封筒を出し、木箱に落とした。乾いた音がした。真琴はそれを聞きながら、窓の外の海を見た。防波堤の先から赤いポストは消えていたが、潮の光り方は前と同じだった。
届かない言葉がなくなるわけではない。
なくならないから、人はどこかに差し入れる口を必要とするのだ。
真琴はカウンターの下にしまっていた封筒を取り出し、宛名を指でなぞった。父へ、と書かれたその文字は、少しだけ昨日より落ち着いて見えた。
すぐに出すつもりはなかった。
たぶん、ずっと出さないのだと思う。
それでも、書いたことで確かにひとつ終わり、ひとつ始まっていた。外では潮が満ちてきて、見えないところで静かに港の縁を持ち上げていた。