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短編

潮待ち電話

廃止される海辺の公衆電話の前で、男は長く言えなかった一言をようやく口にする。

Genre
幻想文学
Series
単発
#海辺#公衆電話#姉弟#後悔#再生

町で最後の公衆電話を撤去する仕事が、私のところへ回ってきたのは、梅雨の終わりだった。

電話ボックスは防波堤の先、錆びた街灯の下に立っていた。ガラスはすこし白く曇り、受話器のコードは何度も潮風に撚られた縄みたいに固くなっている。すぐそばまで海が来るせいで、満ちているときは、電話ボックスが波音の中に半分沈んでいるように見えた。

町の人はそれを「潮待ち電話」と呼んでいた。

潮が大きく引く日だけ、ここからは、かけ損ねた相手につながるのだという。死者につながるわけではない。もう会えない相手とも少し違う。あのとき電話をかけていれば、あのときひとこと言えていれば、という、その「間に合わなかった時刻」にだけ届くらしい。

私はそういう噂を信じていなかった。信じていないからこそ、役場の下請けを十年も続けられたのだと思う。壊れた街灯はただの街灯だし、使われなくなった遊具はただの鉄だ。人が思い出をくっつけるたび、物の撤去は少し面倒になる。面倒になるが、仕事は仕事だった。

ただ、その電話だけは、撤去日を決めようとすると決まらなかった。重機を入れる日に限って雨が強くなり、担当者が熱を出し、海が荒れた。結局、町内会長に「どうせなら今月いちばん潮の引く日にしなさい」と言われ、その通りにした。

撤去当日の朝、防波堤にはすでに三人ほど人がいた。

魚屋の奥さんは、受話器を握って「今日の鯵は安いよ」とだけ言った。戻ってきた顔は泣いても笑ってもいなかったが、頬のあたりがほどけていた。
高校生くらいの男の子は、「あの試合、見に来なくてもよかったのに」と吐き捨てるように言って、しばらくしてから、受話器に向かって小さく「でも来てくれて、うれしかった」と言い直した。
最後に白髪の女の人が入り、ずいぶん長く黙った末に、「お味噌汁、鍋ごとでいいから、温めれば食べられるから」とだけ言った。

みんな、たいしたことのない文句を残して帰っていく。愛しているだの、許してほしいだの、もっと大きな言葉を言うのかと思っていた私は、少し拍子抜けした。

けれど、帰り際の背中は、どれも来たときより軽かった。

潮は昼前からゆっくり引き始め、海底の黒い石が何列も現れた。ボックスの足元にまとわりついていた泡が消え、扉の下に挟まっていた海藻が乾いて縮んでいく。私は工具箱を開き、手順書を膝にのせたまま、なかなか最初のネジに手をかけられなかった。

私にも、かけ損ねた相手がいた。

姉の澪だった。

八年前、母が倒れて、介護の話し合いをした夜のことを今でも覚えている。実家の居間は蒸し暑く、扇風機は首を振るたびに畳の匂いをかき混ぜていた。姉は勤め先を辞めてこっちへ戻るか迷っていて、私は町を出る気も残る覚悟も半端だった。腹の底では、ひとりになるのが怖かった。怖いくせに、その怖さを認めるのが嫌で、私は姉に言ったのだ。

「好きにすれば」

突き放した声だった。
本当は逆だった。
好きにしていい、と言いたかったわけではない。おまえだけに背負わせたくない、と言いたかった。怖いから、少し待ってくれ、と言いたかった。

姉はその三日後に町を出た。母は施設に入り、私は役場の雑用と下請け仕事を行ったり来たりしながら、季節だけを見送った。姉からは年に一度、住所だけ変わる簡素な葉書が届いた。私は返信を書かなかった。書けば、最初の一行で八年前の自分に触れなければならなかったからだ。

波打ち際から吹く風は、生ぬるいのに塩だけ鋭かった。

気づくと、私は電話ボックスの中に立っていた。床は砂でざらつき、ガラスに映った自分の顔は、海辺の小屋に置かれた古い鏡みたいに頼りなかった。百円玉を入れると、軽い音がして、受話器の向こうで小さく息を吸う気配がした。

番号は押さなかった。

代わりに、あの夜の居間の音がした。

扇風機の羽根。食器の触れ合うかすかな音。姉が何かを段ボールに詰める気配。遠くで犬が一度だけ吠える。八年前の、まだ取り返しがつくと信じていた時間の音だった。

喉がひどく狭くなった。こういうとき、人はもっと劇的な言葉を選ぶのかもしれない。けれど防波堤で見た三人の背中を思い出すと、口から出てきたのは、ごく小さな、台所の湯気のような言葉だった。

「澪。あのとき、おまえだけに任せたかったわけじゃない」

向こうで物音が止んだ。

長い沈黙のあと、若い姉の声がした。

「……うん」

それだけだった。
それだけなのに、胸の奥で長く固まっていたものが、潮に溶ける塩の塊みたいに、静かに崩れた。

もうひとこと続けようとした瞬間、つう、と乾いた音がして、線は切れた。受話器の奥には、いまの海の音だけが残っていた。

ボックスを出ると、潮は底まで引き切っていた。私は工具を手に取り、今度こそ作業を始めた。ネジは思ったよりあっさり回った。電話機を外し、配線をまとめ、ガラス扉を取り外す。町内会長が差し入れの缶コーヒーを置いていったが、私はしばらく手をつけなかった。

撤去が終わるころには、夕方の光が防波堤を薄い銀色にしていた。そこには四角い跡だけが残り、長年そこに立っていたものが消えたというのに、景色は妙に整って見えた。

帰りの軽トラックの中で、私は八年間一度も押さなかった番号をスマートフォンに打ち込んだ。発信音が鳴るあいだ、さっきの「うん」が耳の奥で小さく揺れていた。

三度目で姉が出た。

「もしもし」

現在の、少し低くなった声だった。
私は海を見た。防波堤はもう遠く、波は満ち始めている。

「俺だよ」と言ってから、少しだけ息を吸った。
「急で悪い。今さらだけど、あのときのこと、ちゃんと謝りたい」

通話の向こうで、姉はすぐには答えなかった。切られたかと思うほど静かで、その静けさのなかに、遠くでやかんの鳴るような生活の音が混じっていた。

やがて姉が言った。

「味噌汁ならあるけど」

私は思わず笑ってしまった。笑うつもりはなかったのに、声が勝手にほどけた。
姉も少し遅れて笑った。

「鍋ごとでいいなら、今度温めるよ」

海はもう、元の高さへ戻りつつあった。さっきまで電話ボックスが立っていた場所を、夕方の波が何事もなかったように洗っていく。間に合わなかった時刻は戻らない。けれど、満ちてくるものも、たしかにあるのだと、そのときようやく思えた。