短編
潮騒ホテル
海辺の古びたホテルで、一夜を過ごした男が見た“夢”とは。
国道から外れた小さな道を下っていくと、ぽつんと建つ古い建物が見えてきた。
三階建ての白いホテル。看板には「潮騒ホテル」と、くすんだ青い文字が書かれている。
夏休みを利用して一人旅をしていた拓真は、スマホで見つけたその宿に、気まぐれで予約を入れた。海が近いというだけで選んだ場所だったが、実際に目の前に広がる海岸は、驚くほど静かで、人気がなかった。
チェックインの際、フロントにいた中年の女性が言った。
「三階の海側のお部屋です。……窓は、なるべく閉めてお休みくださいね」
その言葉に少しだけ違和感を覚えたが、旅先のテンションで気にも留めなかった。
部屋は古かったが清潔だった。窓を開けると、海の匂いと潮風が一気に流れ込んでくる。遠くで波の音が響いていた。
シャワーを浴び、缶ビールを飲みながら横になると、次第にまぶたが重くなっていく。
そして――夢を見た。
ざぶん、ざぶん、と波の音。部屋の外から、誰かが窓を叩く音がする。
コツ、コツ。
夢の中の自分は、ベッドから起き上がり、窓へと近づく。
そこには、女がいた。
窓の外、三階の高さに――水に濡れた長い髪、白いワンピースの女が、浮かんでいる。笑っていた。唇が、何かを言っている。
声は聞こえない。ただ、その口の動きだけが、はっきりと読めた。
「……かえして」
次の瞬間、窓が勝手に開いた。潮風とともに、水の匂いが部屋を満たす。
女が、入ってくる。
そこで目が覚めた。
体中が冷えていた。窓は……閉まっていた。鍵もかかっていた。
ただ、床が濡れていた。波のように、部屋の奥まで水が染みていた。
その夜はほとんど眠れず、明け方にチェックアウトした。
フロントの女性に夢のことを話すと、彼女は表情を変えずにこう言った。
「……あの部屋、海に流された娘さんが最後に泊まったんです」
彼女は、淡々と続けた。
「自分を見つけてほしかったんでしょうね。でも、戻ってきたのは……“誰か”の記憶だけ」
車に乗り込み、海沿いの道を走る途中、拓真はふと気づいた。
バックミラーに、後部座席の端に映る水滴。そこに、誰かの指でなぞったような文字が浮かんでいた。
「つぎは あなた」
その後、潮騒ホテルの予約サイトは消え、連絡も取れなくなった。
けれど、海辺を走る旅人の中には、今もあのホテルの看板を“見た”という者が、時々現れる。
彼らのほとんどが、同じ夢を見るのだという。