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短編

終点の忘れもの係

路面電車の終点で忘れものを預かる男が、持ち主のない傘を通して自分の言えなかった別れに向き合う短編。

Genre
現代幻想
Series
単発
#忘れもの#路面電車#別れ#再生#街

終点の停留場には、雨の匂いが沈殿している。

街のいちばん古い路面電車は、海の見えない海沿いを走る。塩気を含んだ風だけが律儀にレールの上を往復し、車体の緑色を少しずつ剥がしていく。私はその終点で忘れもの係をしている。係といっても、詰所の隅にある棚の鍵を預かり、届いた品に札をつけ、三か月たっても持ち主が現れなければ処分の書類を書く、それだけの仕事だ。

傘、手袋、文庫本、帽子、幼児の靴。忘れものには、たいていその人の今日がうっすら付いている。湿ったレシート、剥がれかけた絆創膏、ポケットの底で砕けたビスケットの粉。私はそれらを見ないふりで見て、見ていないふりで保管する。

誰かの暮らしが、終点でいったんほどける。

十月の終わり、朝から細い雨が降っていた。運転士の桐山さんが、濡れた一本の傘を持って詰所に入ってきた。

「また一本。珍しく黒じゃない」

深い藍色の傘だった。持ち手は白木で、石突きの金具に小さな傷がある。高価でも安物でもない、長く使われてきたものの静かな手触りがあった。私は札に日付と便名を書き、いつものように棚へ入れようとした。そのとき、傘の留め具の裏に、糸で縫いつけた小さな布片があるのに気づいた。

「いってきます」

子どもの字でも大人の字でもない、不思議な丸みのある刺繍だった。雨に濡れた糸がわずかに濃く見えた。

「名前じゃないんですね」
と私が言うと、桐山さんは肩をすくめた。
「忘れないようにしてたんじゃないか。言うのを」

その言葉が、なぜか詰所の空気に長く残った。

忘れものは、保管してから一週間ほどで持ち主が現れることが多い。三日目あたりまでは問い合わせの電話も鳴る。けれど藍色の傘については、何の連絡もなかった。私は問い合わせ簿をめくるたび、つい傘の札を見てしまった。停留場の窓から降る雨を見ていると、あの傘だけがどこかの会話の途中に置き去りにされているように思えた。

一週間後の夕方、制服のままの女子高生が詰所を訪ねてきた。髪が少し濡れていて、鞄に下げたキーホルダーが、扉のガラスに一度だけ当たって鳴った。

「すみません、忘れものって見せてもらえますか」

決まりなので、私は特徴を尋ねた。彼女は少し考えてから、
「藍色の傘で、持ち手が白くて、留め具の裏に文字があります」
と言った。私は棚から傘を出した。彼女はそれを受け取る寸前で手を止め、息をのみこんだ。

「やっぱり」
と言ったきり、しばらく黙っていた。

書類に名前を書いてもらうと、名字だけが私の記憶のどこかに触れた。終点近くの商店街に、同じ名字の古い時計店がある。今はシャッターが閉まりっぱなしで、看板の文字だけが日に焼けて薄い。

「おうち、時計屋さんでしたよね」
気づくと私はそう訊いていた。

彼女は驚いたように顔を上げ、それから小さくうなずいた。
「去年、閉めました」
「そうでしたか」
「祖父がやってて。春に亡くなって」

言葉が細い橋みたいに架かったまま、次の一歩が見つからなかった。私は事務的な声で「お悔やみ申し上げます」と言いかけて、やめた。そんな決まり文句は、雨の日の傘みたいに正しくても、いちばん濡れているところを守れない気がしたからだ。

彼女は傘の留め具を撫でた。
「これ、祖父の傘なんです。刺繍したのは祖母で。祖父、出かけるとき何も言わない人だったので、祖母がふざけて縫ったんです。これ見たら、ちゃんと言うでしょって」
少し笑ってから、その笑みを自分でたたむように俯いた。
「でも、ちゃんと言わないままでした」

外では電車のベルが鳴った。終点に着く音は、いつも少し寂しい。到着というより、行き先そのものが尽きた感じがする。

「おじいさん、この電車をよく使ってたんですか」
「病院の帰りに。終点まで乗ると、座っていられるからって。亡くなる前の週も、ひとりで乗ったらしくて」
彼女は詰所の窓の向こうの濡れたホームを見た。
「たぶん、そのとき忘れたんだと思います。でも家族、誰も気づかなかった。雨が降ってなかったから」

傘がなくても帰れる日というのはある。言葉がなくても別れられてしまう朝みたいに。

受領書を書き終えた彼女は、傘を抱えるように持った。しかしすぐには帰らなかった。何かを迷っている人の沈黙は、よく分かる。私も何年か前、そうやって同じ沈黙の前に立っていた。

妻が家を出た朝、私は靴箱の上の郵便物を整理していた。彼女は玄関で靴を履き、珍しく何も急いでいない声で「いってきます」と言った。その日の午後、駅前でトラックと接触して、救急搬送された。病院に着いたときには、もう言葉を取り戻せない場所へ行っていた。

最後の言葉が「いってきます」だったことを、私は長いこと受け入れられなかった。もっと別の、たとえば昨夜の献立に対する不満でも、クリーニングの受け取りの確認でもよかった。生活の続きにある言葉なら、私もまだ続きを生きられた気がした。でも「いってきます」は、帰ってくる約束を含んでいるから厄介だった。約束が破られたのではなく、宙づりのまま残ったのだと気づくまでに、私はずいぶん時間がかかった。

「私、祖父に一回だけ腹を立てたことがあって」
と彼女が言った。
「病院へ行く朝に、送ろうかって聞いたら、子ども扱いするなって。それで私もむきになって、じゃあ勝手にしてって言ったんです」
彼女は唇を噛んだ。
「そのあと、仲直りしないまま」

私はうなずいた。慰める代わりに、窓の曇りを指で少し拭った。終点のホームの先には、使われなくなった古い引き込み線がある。草が生え、レールはそこであっさり途切れている。

「終点って」
私は自分でも意外なくらい静かな声で言った。
「終わる場所に見えますけど、忘れものって、ここから戻っていくこともあるんです」

彼女は顔を上げた。私が何を言いたいのか、自分でもうまく分かっていなかった。ただ、あの藍色の傘が、何かを終わらせるためではなく、持ち帰るためにここに来たのだと思いたかった。

「言えなかったことは、別の形で言い直せるかもしれません」
「別の形?」
「手紙とか。店を掃除するとか。傘を使うとか」
少し考えてから、私は付け足した。
「言葉だけが言葉じゃないので」

彼女はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「変な忘れもの係さんですね」
「よく言われます」
本当は一度も言われたことがない。

彼女は傘を開いてみた。藍色の布が詰所の薄い蛍光灯をやわらかく受けた。まるで雨の夜そのものが、静かに骨を持ったみたいだった。

「祖母に返します」
彼女は言った。
「たぶん、いちばん待ってたのは祖母だから」

その言い方がよくて、私は初めて、その傘が無事に持ち主へ戻る気がした。物は人の手に返るだけでは足りない。待っていた時間のところへ戻っていくのだ。

彼女が帰ったあと、詰所にはまた雨の音だけが残った。私は棚を閉め、台帳に返却済みの印をつけた。それから何となく、引き出しの奥を探った。古い名札や輪ゴムにまじって、小さなメモ帳が出てきた。去年の冬、何かのついでに買って使わずにいたものだ。

私は一枚切り取り、しばらくペンを持ったまま動かなかった。

書きたい相手の名前は簡単に書けるのに、その次が難しい。謝罪も感謝も、会いたいも寂しいも、どれも本当で、どれも遅い。遅い言葉は、紙の上でとても不器用だ。けれど遅いから無意味だと、今夜は思いたくなかった。

私は結局、たった一行だけ書いた。

「いってらっしゃい」

自分でも少しおかしくなった。行ってしまった人に向かって、今さら見送るなんて。でも、見送っていなかったのだ。私はあの朝、郵便物の束から顔も上げず、返事をしなかった。忙しかったのでも、機嫌が悪かったのでもない。ただ、夕方にはまた会えると思っていた。人は、当然のように続くと思っているものに、いちいち言葉を添えない。

メモを折って、詰所の窓辺に置いた。誰に届けるでもなく、提出する書類でもなく、ただ今の私に必要なかたちとして。

雨はいつのまにかやんでいた。ホームの端に溜まった水が、駅灯を細かく揺らしている。最終便が滑り込み、降りてきた乗客が三人、黙って改札のない出口へ歩いていく。みんな、それぞれの続きを持っているように見えた。

桐山さんが詰所をのぞいて、
「今日は忘れもの、もうなさそう?」
と訊いた。
私は窓辺のメモを裏返して答えた。
「たぶん、一つ減りました」

桐山さんは意味を問わず、ただ「それはよかった」と言って笑った。

終点には、いろんなものが集まる。置いていかれた傘、読みかけの文庫本、片方だけの手袋、間に合わなかった謝罪、言えなかった見送り。けれど、ここが最後とは限らない。少し濡れて、少し冷えて、名前の札をつけられて、それでもまだ戻っていけるものがある。

私は詰所の明かりを消した。暗くなった窓に、自分の顔がぼんやり映る。その向こうに、藍色の夜が広がっていた。誰かを待ち続ける色ではなく、誰かを送り出したあとに残る、静かで深い色だった。