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短編

終電の改札は体温を覚える

毎晩同じ改札を通るうちに、男はICカードではなく自分そのものを読み取られていたことに気づく。

Genre
ホラー
Series
単発
#乗っ取り#終電#改札#体温

終電で帰る生活が半年つづくと、改札の音だけでその日の気分がわかるようになる。

軽い日なら、乾いた「ピッ」。
残業で足を引きずった日なら、どこか湿った「ピピッ」。
酔客が多い夜は、機械なのに苛立ったような早口になる。

そんなふうに感じるのは疲れているからだ、と最初は思っていた。

会社のある都心から四十分。私が降りるのは、線路が二本しかない小さな駅だ。夜の一時を過ぎると改札前の売店も閉まり、照明も半分ほど落とされる。人のいない時間帯の駅は、建物というより、大きな口を開けた生き物の喉みたいだった。

その駅で、三週間ほど前から妙なことが起きていた。

私が改札に近づくと、まだICカードを鞄から出してもいないのに、ゲートのランプが先に青くなるのだ。

最初は誤作動だと思った。だが、手前で立ち止まると、ランプもじっと待つ。わざと別のレーンへ向かうと、そちらが青くなり、元のレーンは無言で消える。まるで、どこを通るつもりか知っているようだった。

駅員に言ってみたことがある。

若い駅員は笑って、「新しい予測制御ですよ」と答えた。

「歩き方とか速度とか、持ってる端末の位置とかで、通過しそうな人を先読みするんです。混雑緩和の実験で」

「そんな細かいことまでわかるんですか」

「最近のは賢いんで。顔というより、癖を読む感じですね」

癖を読む。

その言い方が、妙に耳に残った。

それから私は、終電の同じ車両、同じ扉、同じ階段、同じレーンを避けるようにした。ひとつ手前の扉で降りたり、エスカレーターを使わず階段を選んだり、改札の直前で急に立ち止まったりした。

それでもゲートは、いつも一拍先に青くなった。

ある夜、改札のガラスに自分ではない影が映った。

私のうしろに、男が立っていた。

四十代くらい。コートの前をきちんと閉め、顔色が悪い。終電の乗客なら珍しくもない風体だが、奇妙なのはその距離だった。人ひとりぶん空けたはずなのに、ガラスの反射では肩が触れそうなほど近い。

私が立ち止まると、男も止まった。
右足を少し引くと、男の影も同じように右足を引いた。

振り返ったとき、そこには誰もいなかった。

改札を抜ける瞬間、機械が小さく鳴いた。

「おかえりなさい」

女の声だった。

録音でも、駅員の呼びかけでもない。耳元に口を寄せられたような近さだった。

私はその場で立ち尽くしたが、うしろから来た酔客にぶつかられ、押し出されるように駅の外へ出た。

翌日、勤務中にスマホへ通知が来た。深夜一時十八分、自宅マンションのエントランスを解錠したというログだった。

その時刻、私はまだ駅を出たばかりだったはずだ。

管理会社のアプリの不具合かと思った。だが、履歴をさかのぼると、ここ一週間、私の帰宅時刻より数分早い解錠記録が毎晩ついている。エレベーターの使用記録も、宅配ボックスの確認履歴も、ぜんぶ「私」だった。

部屋で待ち伏せしてみようと思ったが、その夜は会議が長引き、結局また終電になった。

ホームには私を含めて四人しかいなかった。
車内で眠る気にもなれず、窓に映る自分ばかり見ていた。

降車駅に着く。無人に近いコンコース。蛍光灯の白さ。
そして、閉鎖中のはずの端の改札だけが青く点いていた。

普段はチェーンが掛けられている簡易レーンだ。
だがその夜は、チェーンが外れ、ガラス扉が薄く開いていた。

向こう側に、あの男が立っていた。

反射ではない。ちゃんと実体がある。
コートの襟を正し、私の癖そのままに、左肩を少し下げて立っている。

私は逃げようとして、足が止まった。
いや、止められたのだ。

頭より先に体が動く感覚があった。毎晩の通過で覚え込んだ角度で、膝がほどけ、腕が振れ、鞄の位置まで定まっていく。見えない手に「いつもの通り方」へ戻されていく。

改札機の表示が、乗車券の残額ではなく、見たことのない文字列に変わった。

認証中
歩幅
重心
体温
通過可

男が微笑んだ。
それは私が取引先に見せる、愛想だけの笑みと同じ形だった。

「毎日ありがとうございました」

今度は機械の声ではなかった。男の口が動いた。

「あなたは通るたび、少しずつ置いていった。急いでいる夜の呼吸も、苛立っているときの足音も、鍵を探す指先の癖も。ここは忘れ物が集まる場所です」

男が一歩踏み出す。
改札は彼のために静かに開いた。

その瞬間、私のスマホの画面が点いた。顔認証が作動し、即座に解除された。
私の顔ではない。画面に映ったのは、青白いあの男だった。

私はようやく叫んだが、駅は何も返さない。終電の去ったあとの空間は、音を飲み込むのがうまい。

男は改札を抜け、駅の外へ歩いていった。
私の歩幅で。
私の速度で。
明日の私が会社へ向かうときと同じ、疲れ切って無駄のない歩き方で。

私はあとを追おうとして、閉じたガラスに阻まれた。

赤いランプが点滅する。
エラー音が鳴る。

通過できません

何度カードを当てても、ゲートは冷たく同じ音を返すだけだった。
そのうち表示が変わった。

お客様の情報は
すでに使用中です

駅員室は無人だった。
非常電話もつながらない。
ガラスに映る自分の顔は、たしかに私なのに、妙に作りが甘かった。眉の角度も、口元の癖も、誰かにあとから思い出しながら描き直したみたいに曖昧だった。

ホームへ戻る階段の途中で、下りの始発を待つ清掃員とすれ違った。
私を見ても、少しも驚かない。
ただ、閉鎖レーンのほうへ視線を流し、小さく言った。

「また入れ替わったんですか」

私は振り向いた。

端の改札の向こう、照明の届かない暗がりに、人が何人も立っていた。
みな、家に帰れなかった顔をしていた。
それでも姿勢だけは妙に整っていて、誰かの歩き方を返してもらう順番を、静かに待っているように見えた。

先頭のひとりが、私にそっくりな角度で首をかしげた。

改札が青く点る。

今度は、私のためではなかった。