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短編

プラットホームに置いていく声

閉鎖間近の無人駅で「置いていきたい声」を預かる女は、最後の一日に自分自身の置き去りにしていた言葉と向き合う。

Genre
現代幻想
Series
単発
#喪失#記憶#駅#再会#余韻

海の見える終着駅には、風の強い日だけ開く窓口があった。

改札の脇、いまは使われていない手荷物預かり所の小窓に、白い紙が一枚貼ってある。

置いていきたい声、お預かりします。

そう書いたのは、三十七歳の志乃だった。もちろん鉄道会社の正式な業務ではない。駅長が見て見ぬふりをしてくれているだけだ。この小さな無人駅は、来月で廃線になる。最後くらい、切符にも運賃にもならない用事があってもいいだろう、と駅長は笑った。

志乃は、客が来たらノートを開き、相手の前に小さな録音機を置く。

「言いたかったことでも、聞きたくなかったことでも、どちらでも」

そう言うと、多くの人は少しだけ困った顔になる。声を置いていく、という言い方が胡散臭いのだ。それでもこの窓口には、案外ひとが来た。閉駅の噂を聞きつけて遠くから来る者もいれば、近所で買い物帰りに立ち寄る者もいる。

録音機に吹き込まれた声は、志乃が番号をつけて棚にしまう。客は再生しない。志乃も聞かない。夏の終わりから始めて、棚にはもう四十七本の小さな音声ファイルが並んでいた。

夫に言えなかった離婚の同意。
母に返せなかった「行ってきます」。
試合に負けた子どもに浴びせた、少しだけ硬すぎた励まし。
死んだ犬の名を、最後に一度だけ呼ぶ声。

誰かが持ちきれなくなった言葉は、形がないくせに、驚くほど場所を取る。だからここに置いていく。そう思えば、この妙な窓口にも理由はあった。

駅舎の向こうに海がある。午後三時の列車が出ると、しばらく駅は空っぽになる。ベンチに残るのは潮の匂いと、時刻表をめくる風の手つきだけだ。

その日、志乃は窓口の奥でノートの端を揃えていた。閉駅まで、あと七日。手荷物預かり所の古い木枠に触れるたび、指先に粉のような乾きがついた。

「まだ預かってもらえますか」

顔を上げると、男が立っていた。五十代のはじめくらいに見える。グレーの上着は海風に薄く膨らみ、手には黒いビジネスバッグがあった。きちんとした人、という印象は、疲れている人、という印象とよく似ていた。

「はい。最終列車まで」

男は頷いたが、すぐには椅子に座らなかった。窓の外を一度見てから、ようやく腰を下ろす。

「どんな声でも、ですか」

「たぶん」

志乃がそう答えると、男は少し笑った。笑ったあとで、その笑いを引っ込めるみたいに唇を閉じた。

「では、妻に向けた声を」

志乃は録音機の赤いボタンを押し、男の方へ滑らせた。男は機械をしばらく見つめた。やがて息を吸い、しかし何も言えずに、そのまま停止ボタンを押してしまった。

「すみません」

「いいえ。録り直せます」

「いや……たぶん、録らないほうがいい」

男は立ち上がりかけて、また座った。窓口の上に置かれた時刻表を見た。まるでそこに助け舟でも書いてあるかのように。

「昔、この駅から娘を送り出したんです」

不意に始まったのは、録音ではなく、ただの会話だった。

「高校を出て、町を出る日に。私は仕事があって、見送りに十分だけ遅れた。ホームには妻がいて、娘はもう列車に乗っていた。ドアが閉まる直前で、私は言ったんです。頑張れよ、って」

男はそこで目を伏せた。

「それが、最後でした」

娘は都会で病気になり、あっという間に亡くなったという。志乃は相槌を打たなかった。ここでは、大抵の話は慰めの形にすると壊れてしまう。

「妻は私のあの一言を、ずっと許さなかった。頑張れよ、なんて。あの子はもう、十分頑張っていたのに、と」

窓の外で、カモメが一声鳴いた。駅の屋根に反響して、少しだけ金属めいた響きになった。

「私もそう思います。あれは、私が自分を守るための言葉だった。気の利いた父親に見せたかっただけだ。言うべきだったのは、別のことだった」

「何を」

男はしばらく答えず、やっと、ひどく静かな声で言った。

「帰ってこなくてもいい、でした」

志乃は瞬きをした。

「この町を好きになれなくていい。父親の期待にも応えなくていい。帰ってきて店を継がなくていい。生き延びるためなら、遠くへ行って、二度と戻らなくてもいい。そう言えたらよかった」

男の手が、ビジネスバッグの取っ手を強く握った。節が白くなる。

「でも私は、駅のホームでたった二語しか渡せなかった」

頑張れよ。

それはきっと、父親が使えるいちばん貧しい通貨だった。

志乃は録音機を見た。赤いランプは消えている。録られていない言葉は、たしかにいまここにあったのに、形を持たないまま風に晒されている。

「奥さまに向けた声を預けるつもりだったんですよね」

男は頷いた。

「けれど、本当は娘さんに向けた声だった」

「たぶん」

「それなら、預かれます」

男は怪訝そうに顔を上げた。

「録音しなくても?」

「ええ。言葉って、口に出たものだけじゃないので」

自分で言って、志乃は少し可笑しくなった。ずいぶん商売気のない窓口だと思う。

男は長く息を吐いた。そして何かを決めた顔で立ち上がると、窓口に百円玉を置いた。

「正式な料金じゃありません」

「正式な依頼でもないでしょう」

そう言って男は改札へ向かった。ホームに出る前に一度だけ振り返る。その目が、不意に志乃の記憶を揺らした。

似ている、と思ったのは目ではなく、振り返り方だった。

列車が来るとき、ホームの端で必ず一度だけこちらを見る癖。十九年前の春、同じように振り返って、そして列車に乗った人がいた。

志乃の喉が急に乾いた。

男が去ったあと、彼女は棚のいちばん上の空きケースをひとつ取り出し、何も入っていないまま番号を書いた。四十八。ラベルには、こう記す。

帰ってこなくてもよかった。

それはたぶん、誰かを見捨てる言葉ではなく、やっと自由にするための言葉だった。

夕方、駅長が缶コーヒーを二本持ってきた。焼けたような顔に、今日はいつもより深い皺がある。

「閉駅式の日、挨拶してくれって本社が」

「私がですか」

「君、いちばん客を集めたからな。この怪しい窓口で」

志乃は笑った。駅長は一本を机に置き、それから棚の音声ファイルを眺めた。

「聞いたことは」

「ありません」

「聞きたくなるだろう」

「だから聞かないんです」

駅長は缶の蓋を開けながら、そうか、とだけ言った。わかるとも、わからんとも言わない。その曖昧さに、志乃は何度も救われてきた。

「君は置いていかないのか」

不意の問いに、缶コーヒーの甘い匂いが少し遠のいた。

「何をです」

「声だよ」

駅長は駅舎の外、海の方を見たまま言った。

「ここを始めたときから、君がいちばん重そうなのを持ってる顔をしてる」

志乃は返事をしなかった。駅長はそれ以上聞かず、缶を半分だけ飲んで事務室へ戻った。

窓口に一人残ると、夕日の光がレールを赤く細く伸ばしていた。海はよく晴れた日のくせに鈍い色で、まるで大きな金属板のように光を返している。

十九年前の春、志乃はこの駅で恋人を見送った。

東京の音楽学校に行くと言っていた。町に残るか、一緒に来るかと何度も訊かれたが、志乃は決められなかった。病気の母がいて、家の小さなクリーニング店もあった。なにより、自分の未来を大きく選ぶことが怖かった。

だから彼が列車に乗る直前、志乃は笑って言ったのだ。

行ってらっしゃい。

それは優しい言葉の顔をした、残酷な保留だった。待っている、とも、行かないで、とも、一緒に行く、とも言わなかった。どちらにも責任を持たないための、いちばん感じのいい言葉。

彼は最初のうち、手紙をくれた。駅前の喫茶店でピアノを弾いていること、うまくいかないこと、でもやめたくないこと。志乃は返事を書いたり書かなかったりした。母が死に、店を畳み、気づけば何年も経っていた。風の便りに、彼が結婚したことだけを知った。

あのとき本当に言いたかったことを、志乃はまだ持っていた。

行かないで。
置いていかないで。
でも、それだけでもない。
もし行くなら、私の弱さごと忘れて、あなたの行きたい場所へきちんと行って。

どれも言えなかった。言えなかった言葉は腐らない。そのかわり、胸の奥で乾いて硬くなり、折に触れて自分の内側を擦る。

閉駅前日の夜、志乃はひとりで窓口を開けた。誰も来ない時間を待って、録音機の赤いボタンを押す。

小さなランプが灯る。海鳴りが薄く混じる。

「——あなたに、ではないのかもしれない」

最初の声は、思っていたより年を取っていた。

「たぶん、あのときの自分に言うんだと思う。決められないまま、愛想のいい言葉で逃げた私に」

志乃は一度目を閉じた。ホームを渡る風が、昔より少し塩辛い気がする。

「行ってらっしゃい、なんて、きれいに言わなくてよかった。みっともなくても、選べばよかった。ついて行けないなら行けないって、待てないなら待てないって、ちゃんと傷つければよかった。誰も悪者にならない言葉を選んだせいで、ずっと終わらなかった」

喉が震えた。けれど涙は出なかった。涙に向く季節は、もうずいぶん前に過ぎている。

「だから、置いていきます。言わなかったことへの未練を。もしまだどこかに、あの日のホームに立ち尽くしている私がいるなら、もう列車を見送らなくていい。自分の足で改札を出てください」

停止ボタンを押すと、駅は驚くほど静かだった。

志乃はそのファイルに番号をつけなかった。代わりに、透明なケースへ入れて、棚のいちばん奥に寝かせる。預かったのではなく、ようやく手放したものだからだ。

閉駅の日は、快晴だった。花束を持つ人、写真を撮る人、子どものころの思い出を語る老人たちで、小さな駅は似合わないほど賑わった。臨時列車が一本出て、ホームには拍手が起きた。

式が終わり、夕方の最後の時間、志乃は窓口の紙を剥がした。

置いていきたい声、お預かりします。

テープの跡が木枠に残り、そこだけ少し白かった。駅長がシャッターを下ろしに来る。

「終わりだな」

「ええ」

「何個、預かった」

「四十八と、ひとつ」

駅長は数え方については訊かなかった。ただ頷いて、先に改札の方へ歩いていった。

志乃は最後にホームへ出た。レールの向こう、海は明るく、風は相変わらず勝手だった。誰かの置いていった声が、この場所に本当に留まるのかどうか、彼女にはわからない。たぶん、どこにも留まらない。言葉はそんなに従順ではない。

それでも、置いていったと思えた瞬間にだけ、人は少し軽くなる。

遠くで、もう来ないはずの列車のような音がした。たぶん海鳴りだった。志乃はそれを訂正しなかった。

訂正しないまま、改札を出る。

かつて見送るばかりだった足で、今度は自分が、駅から離れていった。