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短編

留守番電話の空白

取り壊し前の団地で留守番電話の整理を頼まれた男が、誰もいないはずの部屋から折り返しの声を受け取り続ける話。

Genre
ホラー
Series
単発
#留守番電話#団地#失踪#隣人#雨#怪異

雨の音には、古い建物の記憶をやわらかくほぐす働きがあるのかもしれない、と私はあの団地へ向かう坂道で思っていた。舗装のひびに溜まった水は鈍く空を映し、そのうえを通るたび、傘の縁から落ちる雫が小さな輪をつくった。

その団地は、町はずれの斜面にへばりつくように建っていた。五棟並んだうちの四棟はすでに窓を板で塞がれ、最後の一棟だけが管理会社の都合で後回しになっているらしかった。私は臨時の整理係として呼ばれた。室内に残された小物の確認、郵便受けの回収、契約書類の照合。そういう、取り壊し前には必ず発生する、細かな残務だ。

「四〇二だけ、留守番電話があります」

管理会社の若い社員は、濡れた髪をハンカチで押さえながら言った。

「配線がまだ生きていて、たまに点滅してるんです。気味悪いって、前に入った人が嫌がって。電源を抜けば済む話なんですが、入居者の親族が一応、中身を確認してほしいと」

「住人は」

「三年前に行方不明です。男性。独居。警察も入ってますが、部屋から出た記録しかなくて、戻った形跡がない」

そういう話を、事務的な声で告げられると、かえって乾いた不気味さが残る。私は鍵束の中から四〇二の札を受け取った。

階段の踊り場には、昔ながらの掲示板が残っていた。色褪せた自治会のお知らせの隅に、「夜間の無言電話にご注意ください」という紙が、透明な画鋲で留められたままになっている。日付は十年以上前だった。

四階は、雨音がいちばんよく聞こえた。廊下の奥で水滴が規則正しく落ちている。四〇二号室の前には、朽ちた植木鉢が一つだけ置かれ、土は完全に乾いて、中央に白く細い茎のようなものが刺さっていた。近づいて見て、それがプラスチックの歯ブラシだと気づいた。

鍵を回すと、部屋は驚くほど整っていた。生活の気配は薄いのに、放棄された感じがない。机の上には新聞の束、棚には背表紙の揃った文庫本、流しには洗って伏せたままのマグカップ。急にいなくなった、というより、少し席を外したまま長い時間が経ってしまったような印象だった。

留守番電話は、居間の電話台の上にあった。灰色の古い機種で、小さな赤いランプがゆっくり点滅している。新着メッセージ三件。

私は録音ボタンの横にある再生を押した。

ザーッという雨に似たノイズのあと、女の声がした。

『……まだ、そこにいる?』

短い沈黙。

『いたら、出ないで。廊下を見ないで』

そこで切れた。

二件目は男の声だった。年配に聞こえる。

『管理人さんか? 四〇二さん、また夜中に電話が鳴りっぱなしだ。受話器を上げても向こうが喋らん。あんた、ちゃんと……』

雑音に潰れて終わる。

三件目は、時間表示が壊れているらしく日時が出ない。再生すると、最初は何も聞こえなかった。耳を澄ますと、ごく小さく、息を潜めるような呼吸があった。そして、

『いま、玄関の前に立ってる』

囁き声がそう言った。

思わず私は、部屋の入口を振り返った。もちろん誰もいない。覗き穴から漏れる外灯の鈍い光が、ドアチェーンにわずかな輪郭を与えているだけだった。

職業柄、気味の悪い部屋に入ることは珍しくない。遺品整理ほどではないが、誰かの生活の切れ端に立ち会うことには慣れていた。だから、その時も、これは単に嫌がらせか、古い録音のいたずらだろうと考えた。そう考えることで、静まり返った空気の粘りつきを見ないようにした。

室内を確認して回るうち、寝室の押入れから段ボール箱が出てきた。中にはカセットテープが何本も入っている。ラベルには日付と、「廊下」「夜」「呼鈴」「二時一七分」などと書かれていた。箱の底にはメモ帳があり、最初のページに几帳面な字で一文だけ記されている。

「音は先に来る」

その意味がわからぬまま、私は次のページをめくった。そこには、電話の着信時刻と、廊下で聞こえた物音の記録がびっしり並んでいた。

一月十四日 一時三六分 無言電話
一時四〇分 玄関前、咳払い
一時四一分 誰かが自分の名前を確かめる声
一時四三分 ドアポストに指を入れる音

二月二日 二時一七分 留守番電話に女の声
二時二〇分 四〇三の前を裸足で往復
二時二三分 こちらが息を止めると向こうも止める

三月九日 記録なし
先に廊下でノック
そのあと電話

几帳面な文字は、後半になるほど崩れていた。最後の数ページは殴り書きに近い。

「音は先に来る。電話はあとから、それを追いかける」
「覗くと増える」
「管理人は聞いていないと言う」
「隣は空室」
「でも咳だけする」

私は、雨で湿ったシャツの背中がひやりと冷えるのを感じた。四〇三は、来るとき確かに郵便受けが塞がれ、名札も外されていた。空室のはずだ。

その時、電話が鳴った。

古い電子音が、静かな部屋の真ん中に鋭く立ち上がった。心臓が一拍遅れて跳ねる。私は受話器を取るか迷い、結局、留守番電話の録音に任せようとして手を引っ込めた。呼び出し音は五回、六回と続き、やがて切れた。

すぐに、廊下で同じリズムの音がした。

コン、コン、コン。

呼び出し音の回数を、木の節に指先でなぞるような、軽いノックだった。

私は息を止めた。ノックは止む。自分がまた呼吸をすると、向こうも、待っていたみたいに、コン、と一つだけ返した。

胸の内側で何かが細く縮む。メモの一文が勝手に浮かぶ。こちらが息を止めると向こうも止める。

私は忍び足で玄関へ行き、覗き穴を――見なかった。見てはいけない気がした。代わりに耳を寄せる。ドアの向こうは、雨の遠いざわめきと、配管を走る水の音だけだ。人の気配はない。なのに、すぐ目の前のごく低い位置で、誰かが受話器に口を近づけるような湿った呼吸をした。

『まだ、そこにいる?』

さっき留守番電話から聞いた女の声そのものが、ドア一枚隔てて囁いた。

私は後ずさった拍子に傘立てを倒した。乾いた音が響き、その直後、部屋の電話が勝手に再生を始めた。ザーッというノイズ。女の声。

『いたら、出ないで。廊下を見ないで』

その言葉に重なるように、玄関の外から、別の声がした。男とも女ともつかない、喉の奥で濁った声。

「見てるのに」

私は反射的にチェーンを掛け直し、鍵をひねった。もともと掛かっていたのかどうかも曖昧だった。手が汗で滑る。電話はなおも、録音の終端を過ぎたはずなのに、ガサガサと何かを再生し続けている。よく聞けば、それはノイズではなく、廊下を裸足で歩くぺた、ぺた、という音だった。

しかもその音は、電話台の中からではなく、寝室、台所、洗面所、部屋のあちこちで同時にしているようだった。

私は管理会社の社員に電話をかけた。呼び出しはするが出ない。メッセージアプリも既読がつかない。圏外ではない。電波は立っている。なのにこの部屋だけ、外との距離が妙に伸びてしまったように感じる。

ふと、机の上の新聞に目が止まった。最上段の日付は、住人が失踪した翌朝だった。地方欄の片隅に、小さな記事がある。

「老朽団地で相次ぐ無言電話苦情 通話記録残らず」

記事の内容は曖昧で、結局原因不明のまま終わっていた。ただ、住民の一人の証言だけが引用されている。

「鳴ったあとで、廊下に同じ声が立っている」

その時、私のスマートフォンが震えた。非通知。反射的に出る。

ノイズの向こうで、私自身の声がした。

『いま、玄関の前に立ってる』

耳の奥が冷たくなる。録音ではない。少し息を切らした、今の私の声だった。

『まだ間に合う。覗かないで、そのまま帰って』

「誰だ」

問うと、向こうはかすかに笑った。乾いた笑いではなく、喉がうまく閉じない人間の、濡れたような笑いだった。

『さっき、あなたが見たでしょう』

「見てない」

『見たよ。覗き穴じゃない。窓ガラスに』

私ははっとして居間の掃き出し窓を振り返った。ベランダには雨が吹き込み、灰色の空がにじんで映っている。そのガラスに、部屋の中の私の姿がうっすら映っていた。電話を耳に当てた私。その背後、玄関のあたりに、もうひとつ、細長い影が立っている。

振り向くより先に、通話が切れた。

玄関のチェーンが、内側から外れるような金属音を立てた。

私は何も持たず、部屋を飛び出した。廊下には誰もいない。だが四〇三のドアが、わずかに開いていた。隙間の暗さのなかで、固定電話の留守番ランプみたいな赤い点が、ゆっくり明滅していた。

階段を駆け下りるあいだ、上の階から何度も電話の呼び出し音が追ってきた。四階から三階へ、三階から二階へ、音だけが先回りして落ちてくる。管理室まで逃げ込むと、若い社員は青い顔で立ち尽くしていた。

「今、四〇二から電話が来て」

彼は受話器を握ったまま言った。

「あなた、まだ部屋にいるんですかって」

私は何も答えられなかった。

その日の作業は中止になり、四〇二の鍵は回収された。建物は翌月、予定通り解体された。留守番電話も、テープも、帳面も、まとめて廃棄されたと聞いている。証拠になるものは何も残らなかった。

けれど雨の夜になると、非通知で着信がある。受けなければ留守番電話に入る。再生すると、たいていは無音だ。ただ、ほんの時々、遠い廊下の反響を含んだ声が混じる。

『いたら、出ないで』

最初のころはそれだけだった。

先週から、続きが増えた。

『廊下を見ないで。いま、あなたの部屋の前に、あなたが立ってる』