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短編

受け取り窓口の春

閉鎖前の駅の忘れ物窓口で働く青年が、長い歳月を経て引き取りに来た目覚まし時計を一人の女性に手渡す春の一日。

Genre
純文学
Series
単発
#駅#忘れ物#春#帰郷#和解

駅の忘れ物窓口は、改札から少し離れた古い通路の先にあった。昼でも薄暗く、壁紙はところどころ浮いていて、棚には色のあせた傘や片方だけの手袋や、読みかけの文庫本が整然と並んでいる。整然としているのに、ここにあるものはみんな持ち主の時間からはぐれている、と私は毎朝鍵を開けるたびに思った。

来月、駅舎の改修に合わせてこの窓口はなくなる。忘れ物の管理は隣町の大きな駅に集約されることになっていて、私は閉鎖までの三か月だけ臨時で雇われていた。もともとここで駅員をしていた父が去年亡くなり、その机だけが残っていたからだ、と総務の人は気を遣うように言った。

父は几帳面な人で、遺された台帳の字はどれも同じ高さで並んでいた。黒いインクで日付、品名、発見場所、対応。感情の入る余地のない列なのに、ときどき欄外に小さく走り書きがある。
「雨天」
「小児連れ」
「急ぎとのこと」
そういう余白が、父の声にいちばん近かった。

その日の朝、いちばん上の棚を整理していると、奥から小さな白い箱が出てきた。菓子箱ほどの大きさで、ふたに古い荷札が輪ゴムで留めてある。荷札には、掠れた字で「目覚まし時計」と書かれ、その下に受付番号と日付があった。十七年前の四月。台帳をめくると同じ番号が見つかった。

品名 銀色の目覚まし時計
発見場所 二番線ベンチ
引取予定 電話連絡あり

そこまではいつもの記録と変わらない。けれど欄外に、父の字でこうあった。

「来られる日まで預かる。急がせないこと」

私はしばらくその一行を見ていた。規定から外れる保管を、父がするとは思っていなかった。白い箱を開けると、中には布に包まれた小さな目覚まし時計が入っていた。丸い文字盤、細い針、背面のねじ。昭和の匂いがする、ごくありふれた品だった。ねじをそっと回してみると、短く、控えめに、カチ、と鳴った。

昼前、窓口のガラスを軽く叩く音がした。

顔を上げると、五十代の終わりくらいの女性が立っていた。薄いベージュのコートを着て、両手で古い革の財布を持っている。何かを言う前に一度だけ息を整えた。

「すみません。たぶん、もう残っていないと思うんですけど」

そう言って、財布の内側から小さな紙片を取り出した。忘れ物の引換票だった。紙は黄ばんで、折り目が白くなっている。受付番号は、さっき見つけたものと同じだった。

私は女性の顔を見た。彼女は少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった人の顔をしていた。

「お調べします」

そう答えてから、調べるまでもないことに気づいた。それでも私は台帳を開き、番号をなぞり、必要な手順をひとつずつ踏んだ。彼女が待つあいだの時間まで、いきなり短くしてしまわないためだった。

「目覚まし時計ですね」
「はい」
「二番線のベンチで」
「ええ」

彼女は窓口の前の丸椅子に腰かけた。春の風が通路を抜けるたび、外のアナウンスが少し遅れて聞こえてきた。各駅停車が入ります、と言う声は、どこの駅でも同じようでいて、ここでは昔から少しかすれていた。

「実は」と彼女は言った。「高校を出た春に、この町を出たんです。ずいぶん前です」

私はうなずいた。

「その朝、母と喧嘩をしてしまって。台所で毎朝鳴っていた時計だったんです。持っていきなさいって、母が最後に玄関から渡してきて」
彼女はそこで言葉を切り、少し笑った。
「いらない、って言ったんです。本当はうれしかったのに。格好つけたかったんでしょうね。ホームのベンチに置いて、そのまま電車に乗りました」

彼女の視線は私ではなく、窓口の脇の壁を見ていた。そこには古い時計の跡のような、丸い日焼けの薄い輪がある。

「東京に出てから、何度か電話しようと思いました。でも、帰る理由ができるまで帰れない気がして。そんな立派な理由なんて、なかなかできませんでした」
「それで、今日」
「母の家を片づけていたら、この引換票が本のあいだから出てきたんです。たぶん、あとで取りに行くつもりで入れたんでしょうね。母が」

彼女はそこまで言って、やっと私を見た。
「ないなら、ないでかまわないんです。ただ、なくなったことを自分で確かめたくて」

私は立ち上がり、棚の奥の白い箱を持ってきた。窓口のカウンターに置くと、彼女の肩がほんのわずかに揺れた。

「父が、この窓口にいました」
私は荷札を外しながら言った。
「台帳に、来られる日まで預かると書いてあります」

布を開くと、銀色の目覚まし時計が午後の薄い光を受けた。新品ではないけれど、長いあいだ待つことに耐えたものだけが持つ、静かなつやがあった。

彼女はすぐには手を伸ばさなかった。壊れものに触れるというより、遠い日の自分に触れるときの慎重さで、指先を近づけた。背面のねじを少し回すと、時計は数秒のためらいのあと、こつ、こつ、と鳴り始めた。

「まだ動く」

彼女の声は驚いたようでもあり、叱られた子どものようでもあった。

「きっと、丈夫だったんですね」
私がそう言うと、彼女は首を振った。
「待たされ慣れていたのかもしれません」

その言い方がおかしくて、私は少し笑った。彼女も笑った。春になって初めて窓を開けた部屋みたいに、空気がわずかにやわらいだ。

受領のサインをもらうあいだ、彼女は時計を膝の上に置いていた。名前を書き終えてから、その字を自分でしばらく見つめていた。昔この町で呼ばれていた苗字と、いま名乗っている苗字のあいだに流れた時間を、たぶん本人だけが読んでいた。

帰り際、彼女は箱を抱え直して言った。

「あなたのお父さん、やさしい人だったんですね」
「どうでしょう。家では無口でした」
「そういう人のほうが、たまにこういうことをします」

私は荷札の裏を見せた。表からは見えなかった小さな字で、父の書き込みがもう一行あった。

「駅は、急ぐ人の場所でもあるが、待つ人の場所でもある」

彼女はそれを読み、目を伏せた。そして、泣く代わりのように深く息を吸った。

「今日、ようやく受け取れました」
「はい」
「時計を、というより」
「たぶん、そうですね」

彼女は会釈をして通路を歩いていった。改札のほうから電車の着く音が近づいてきて、コートの裾が春の風で一度だけ揺れた。振り返らないのは、もう振り返らなくていいからだと、見ていてわかった。

窓口に戻ると、棚の奥に小さな空白ができていた。さっきまで箱のあった場所だけ、埃の色が違う。私はその空いたところを布で拭いた。何かがなくなった跡ではなく、長く保留にされていた時間が、ようやく元の流れへ戻っていく跡のように見えた。

午後の各駅停車がホームに滑り込み、ベルが鳴る。私は台帳を閉じ、父の机の引き出しにしまった。忘れ物窓口には、まだいくつもの傘と手袋と文庫本が残っている。けれど今日、ここはただ物を預かる場所ではなく、帰るのが少し遅れたものを待っている場所だったのだと、はじめて腑に落ちた。

通路の先から、電車が発つ音がした。私は鍵の束を持ち上げ、次の問い合わせのために椅子をきちんと戻した。時計のいなくなった棚の奥で、聞こえるはずのない小さな刻みが、しばらく耳の底に残っていた。