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短編

駅前の録音電話

廃止される駅前の公衆電話で、女はもう届かないはずの声を聞き、自分が手放せずにいた時間に静かに区切りをつける。

Genre
現代幻想
Series
単発
#駅前#記憶#家族#別れ#再生

駅前の公衆電話が、今月いっぱいで撤去されるらしい。

その張り紙を見つけたのは、雨の止んだ夕方だった。透明なテープで雑に留められた紙は、湿気を吸って少し波打っていた。利用者減少のため、長らくのご愛顧ありがとうございました、とある。まるで古い喫茶店の閉店告知みたいに丁寧な文面だったが、電話ボックスの中では受話器のコードがねじれていて、床には誰かの落としたレシートが貼りついていた。

私はその前に立ったまま、しばらく張り紙を読んでいた。べつに驚くことではない。駅前から本屋が消え、写真屋が消え、みどり色の窓口が名前を変え、切符の切れ端みたいな商店街も半分以上がシャッターになった。公衆電話だけが生き残る理由はなかった。

それでも足が止まったのは、その電話にだけ、私の知っている声が残っている気がしたからだ。

中学生のころ、父はこの電話からよく家にかけてきた。携帯電話を持たなかったわけではない。ただ、仕事帰りに駅へ着くと、一度ここから電話をかける癖があった。今から帰る、牛乳あるか、傘を持ってきてほしい、そういう要件ばかりだった。家まで歩いて七分の距離なのに、父はその七分を待てない人だったのかもしれない。あるいは、家の外から家に声を届ける、その短い儀式が好きだったのかもしれない。

父が死んでから六年になる。

病気はあっけなくて、あっけないものほど後に長く残るのだと、その時初めて知った。臨終の場面より、葬儀の読経より、私はこの駅前の電話ボックスを見かけるたびに父を思い出した。受話器を耳に当てた父の横顔。小銭を指で弾く仕草。通話が終わると、受話器を戻す前に一瞬だけ口元がゆるむこと。家に帰る直前の人だけが持つ、あの曖昧な表情。

私は一度も、この電話を使わなかった。スマートフォンがあるし、使う用事もなかった。でも通りかかるたび、まだある、と確認していた。あることそのものが、父の不在を少しだけ不完全にしてくれる気がしていた。

撤去されると知って、その夜、私は久しぶりに小銭入れを探した。引き出しの奥から百円玉が四枚出てきた。磨耗して、どれも少し軽そうに見えた。

次の日、会社帰りに電話ボックスへ行った。夕方の駅前は人が多く、みんな傘や鞄や買い物袋を抱えて、それぞれ別の急ぎ方をしていた。電話ボックスだけが、時間の流れから少し遅れているように見えた。中へ入ると、ガラス越しの外の音が薄くなる。電車の到着音も、信号機の電子音も、遠い水の底みたいに鈍くなった。

受話器を持ち上げると、乾いた発信音が鳴った。

誰にかけるつもりもなかった。私は百円玉を一枚入れて、実家の番号を押した。いまは母が一人で暮らしている。呼び出し音が鳴り、三回目で母が出た。

「もしもし」

「あ、私」

「あんた、どうしたの。携帯忘れたの」

母はいつも、電話口では少し不機嫌そうに聞こえる。心配をそのまま出すのが照れくさいのだと、近ごろやっと分かってきた。

「ちがう。駅前の公衆電話、なくなるんだって」

「ああ、あれね。張り紙してあったわね」

母は驚かなかった。豆腐が値上がりしたとか、回覧板が遅いとか、そういう話題と同じ調子だった。

「だから何となく、かけてみただけ」

「変な子ね」

四十を過ぎても、母はときどき私を子どものように言う。その言い方に、なつかしさと居心地の悪さが半分ずつ混じる。

「お父さん、あの電話好きだったよね」と私が言うと、母は少し黙った。

雑音がひとつ、受話器の向こうで小さく弾けた。揚げ物の油がはねるような音だった。

「好きだったというか、癖だったわね」と母は言った。「駅に着くと、家に声を入れたかったんじゃないの」

「声を入れる?」

「そう。先に帰ってくるのよ、声だけ」

私は受話器を持ったまま、ガラスに映る自分の顔を見た。疲れていて、髪が少し湿気で広がっていた。父にもこんな日があっただろう。誰にも見せない、駅前でだけの顔。

「お母さん、覚えてるんだ」

「そりゃ覚えてるわよ。毎日だったもの」

母の声は平らだったが、その平らさの下に何かやわらかいものが沈んでいる気がした。私は急に、母もまた父を思い出す場所を持っているのだと気づいた。台所の流し台かもしれないし、ベランダのサンダルかもしれない。私だけが駅前に縛られていたわけではない。

「今度そっち行くよ」と私は言った。

「急にいい子みたいなこと言わなくていいの。来るなら、冷蔵庫のプリン食べる前に連絡して」

そこで百円玉の残り時間を告げる電子音が鳴った。短く、せわしない音だった。母は「あ、切れるわね」と言って、それから、少しだけ声を低くした。

「ねえ」

「なに」

「もし、どうしても惜しいなら、あんたも何か声を入れてきたら」

私は意味が分からず、「何を」と聞き返した。

「別に何でも。帰るよでも、元気だよでも。残るかどうかなんて知らないけど」

その言い方がおかしくて、私は笑った。残るかどうかも分からないものを入れる。瓶に手紙を入れて海へ流すみたいだ。

電話が切れたあと、私はしばらく受話器を戻せなかった。自分の呼吸が受話器に当たって、少しだけ曇った音がした。

もう一度、百円玉を入れる。今度はどこにもかけず、受話器を耳に当てたまま、しばらく黙った。発信音が規則正しく鳴っている。機械のくせに、妙に辛抱強い音だった。

「ただいま」

と私は言った。

言ってから、少し照れた。電話ボックスの外を高校生の集団が通り過ぎ、誰もこちらを見なかった。私は続けた。

「今日は雨が降った。駅前のパン屋、まだつぶれてなかった。お母さんは元気。私はまあまあ。相変わらず、帰るのがあんまり上手じゃない」

言葉は発信音に混じって、どこにも届かないまま消えていく。なのに不思議と、消えることがそのまま無意味ではない気がした。父が毎日ここから家に声を入れていたように、私もいま、自分の戻る場所に向かって、小さな橋を一本だけ架けているのかもしれなかった。

「もう平気、は、まだちょっと嘘かな」

そこまで言って、私は笑ってしまった。誰に対して見栄を張っているのか、自分でも分からなかった。父にか、母にか、昔の自分にか。

そのとき、受話器の奥で、かすかなノイズが鳴った。

雑音といえば雑音だった。回線の揺れ、古い機械の息継ぎ、それだけのはずだ。けれど私には、一度だけ聞いたことのある咳払いに似ているように思えた。帰宅前、玄関を開ける直前、父がよくしていた短い咳払いだ。

もちろん気のせいだ。そんなことは分かっていた。分かっていたのに、胸の奥で何かがほどけた。結び目がほどけるときには、音がしない。ただ、そこに力を入れていたことだけが、あとから分かる。

「うん」と私は言った。「分かってる」

何に返事をしたのか、自分でも曖昧だった。

やがて電子音が鳴り、通話終了を促した。私は受話器をそっと戻した。硬いプラスチック同士が触れ合って、小さく確かな音がした。

ボックスを出ると、空気が少し冷えていた。駅前の看板に明かりがつきはじめ、濡れた舗道に色が伸びていた。撤去の日が来れば、この場所はもっとただの場所になるのだろう。誰かが待ち合わせをし、誰かが自転車を停め、やがて電話ボックスがあったことも薄れていく。

それでいいのだと思った。

残るものだけが大事なのではない。なくなる前に、ちゃんと声を入れたこと。それで十分なこともある。

私は改札のほうへ歩き出した。数歩進んでから振り返ると、電話ボックスのガラスに駅の灯りが映っていて、中はもう空だった。けれど空のものには、空のものなりの満ち方があるように見えた。

ポケットの中で、使わなかった百円玉が二枚、触れ合って鳴った。私はそれをそのままにして、家へ向かった。今日は誰にも電話をかけなくても、ちゃんと帰れそうだった。