短編一覧へ戻る

短編

駅の忘れ言葉預かり所

町の小さな駅にある「忘れ言葉預かり所」で働き始めた青年が、誰にも渡せなかった一言を返していくうちに、自分自身の言えなかった別れにも向き合う話。

Genre
幻想文学
Series
単発
#駅#別れ#言葉#再会#喪失

その町の駅には、改札の横に小さな木の窓口があった。

忘れ物預かり所、ではない。古びた真鍮のプレートには、もう薄くなりかけた文字で、忘れ言葉預かり所と書かれている。

町の人間はみな、その存在を当たり前のように受け入れていた。傘を忘れる人がいるように、言葉を忘れる人もいる。行き先を告げるべきところでうなずいてしまったり、謝るべきところで笑ってごまかしたり、愛していると言えずに電車が来てしまったり。そういう、口から出るはずだったのに置き去りにされた言葉が、夜になるとホームの端やベンチの下から集められて、この窓口に届けられるのだと。

大学を出て町に戻った春、私はその窓口で働くことになった。前任の杉浦さんが亡くなったからだ。駅長は履歴書をろくに見もせず、「君のお祖母さんも昔ここにいた」とだけ言った。

窓口の引き出しには、小さな封筒がぎっしり並んでいた。差出人の名前が分かるものもあれば、ホーム三番線、夕方六時十分、女子高生、みたいな曖昧な札だけのものもある。中に入っているのは紙切れではない。耳を寄せると、封筒の中で息を潜めている気配がある。ときどき、かすかに震える。

最初の客は、毎朝同じ時間にパンを買っていく年配の女の人だった。

「先月、ここに預けられたものがあると聞いて」

私は台帳をめくり、彼女の名前を探した。あった。二月十三日、下りホーム、到着三分前。「ごめんね」。

封筒を手渡すと、彼女はそれを両手で包み、しばらく目を閉じた。それから、ありがとうとも言わずに出ていった。夕方、駅前の喫茶店でその人を見かけた。向かいの席には、もうかなりの年の男の人が座っていた。二人はほとんどしゃべらず、ただコーヒーを飲んでいた。けれど別れ際、彼女は小さく頭を下げ、男の人も同じように頭を下げた。その動作だけで、何十年も滞っていたものが、ようやく一滴ずつ流れ始めたように見えた。

それから私は、毎日、言葉を返した。

「大丈夫」を言えなかった看護師。
「採用おめでとう」を飲み込んだ父親。
「先に死なないで」を冗談の顔に隠した妻。
「ぼくのせいじゃない」を喉に刺したまま大人になった男。

どの言葉も、受け取り手の手に渡った瞬間、少しだけ軽くなる。駅の空気が澄む。夕方のベルが、昨日よりまっすぐ響く。

けれど、返されない言葉もある。

宛先の分からないもの。差出人がもうどこにもいないもの。そして、受け取るべき相手が、受け取らないまま生きると決めたもの。

五月のある雨の日、台帳のいちばん古い棚を整理していて、私は自分の名字が書かれた封筒を見つけた。

日付は七年前。上りホーム。午後四時二十分。
差出人は母。
宛先は私。

封筒に触れた指先が冷えた。母はその年の冬に死んだ。病院からの帰り、私は駅のベンチで父と並んで座り、二人して何も言わなかった。母は最期まで、私が就職のために町を出ることに反対しなかった。背中を押してくれたのだと長く思っていた。実際には、何を思っていたのか聞けないままだった。

私は封筒を開けなかった。

預かり所の規則では、中身は受け取る本人にしか開けられない。私は本人だったが、まだその資格がない気がした。窓口の下の棚にしまい、一週間、見ないふりをした。

そのあいだに、ひとりの少女が毎日窓口の前を通るようになった。中学生くらいで、紺色の傘を肩にかけ、いつも上り列車の時刻表を見ていた。乗るわけでもない。ただ、見て、帰る。

四日目に私は声をかけた。
「誰かを待ってるの」

少女は少し迷ってからうなずいた。
「兄が帰ってくるかもって、母が」
「帰ってきてないの」
「三年前に家を出ました」

それだけ言って、彼女は口をつぐんだ。翌日も、その翌日も来た。私はやがて台帳の隅に、気になる記録を見つけた。三年前、上りホーム、夜八時十分、男子高校生。「行ってきます」。

宛先の欄は空白だった。

その封筒を手にしたとき、私は奇妙な確信を持った。これはあの少女の家に向かうはずだった言葉だ。家出の前の少年が、せめて家族に残そうとして、けれど言えずに列車に乗ってしまった一言。

少女に封筒を差し出すと、彼女は首を振った。
「私のじゃない」
「たぶん、ご家族の」
「でも、兄の言葉なら、兄が言わないとだめです」

強い声だった。小柄な体のどこにそんな硬さがあるのかと思うほど、まっすぐだった。少女は封筒を見ないまま去っていった。

私はその夜、自分の封筒を持ってホームに立った。終電が行ったあとの駅は、水を打ったように静かだ。レールだけが遠くの街の明かりを細く返している。

ようやく私は封を切った。

中には、声が一つだけ残っていた。

――帰ってきても、帰ってこなくても、あなたの席はなくならない。

それは母の声だった。病室で聞いた弱った声ではなく、台所で湯気の向こうから呼ばれるときの、少し急いだ、いつもの声だった。

私はそこで初めて、自分が町を出る日のことを思い出した。母は改札の前で笑っていた。私は照れくさくて、振り返らなかった。あのとき母が言おうとして、言えなかったのは、引き留める言葉ではなかったのだ。戻る場所を先に作っておくための言葉だった。

泣いた、というより、長く固まっていたものが雨にほどけるように崩れた。誰もいないホームで、私はしゃくりあげるでもなく、ただ何度も息を吐いた。

翌日、少女がまた来た。私は昨日の封筒を持って窓口を出た。

「昨日、考えたんだ」
と私は言った。
「言葉って、本人が口で言わないと意味がないものもある。でも、届かなかったまま何年も放っておくと、別のかたちで人を縛ることもある」

少女は黙っていた。

「これは、お兄さんの代わりじゃない。空白のままだった場所を、空白だと知るためのものかもしれない」

彼女はしばらくしてから封筒を受け取った。開けずに胸に抱え、ポツリと訊いた。
「あなたも、待ってたんですか」
「うん」
「帰ってくる人を」
「帰ってこないかもしれないものを、かな」

少女は少しだけ笑った。初めて見る、年相応の、不安定でやわらかい笑いだった。

一週間後、彼女の母親が窓口に菓子折りを持ってきた。兄はまだ帰ってこないけれど、家の食卓で初めてその名前を普通に出せたのだという。怒っている人、という記号ではなく、家を出たままの息子として。

夏が来るころ、預かり所の棚は少しずつ減っていった。なくなることはない。人は毎日、何かを言いそびれる。たぶん死ぬまで。けれど、言えなかったことを無かったことにしないための場所があるだけで、救われる夜もある。

夕方、改札の向こうを見ていると、ときどき母の言葉を思い出す。

帰ってきても、帰ってこなくても、あなたの席はなくならない。

それは私だけのための言葉ではなかったのかもしれない。この駅を通り過ぎていく、言いそびれたすべての人に向けた、預かり所そのものの声のようでもある。

次の列車が入る。ドアが開く。人々が降りてきて、何人かは急ぎ、何人かは立ち止まり、そして何人かは、ここで何かを言い忘れる。

私は窓口の札を表に返す。

忘れ言葉預かり所、本日も営業中。