短編
街灯番号十七の返却簿
忘れたいものを預かる街灯の下で、市役所職員の青年は一人の老女と小さな返却を果たす。
うちの市には、古い噂がある。
夜中の零時を過ぎてから街灯番号十七の下に立つと、なくした物が戻ってくる。財布や鍵ではない。もっと見えにくくて、もっと困るもの。言えなかった一言とか、捨てたつもりの約束とか、名前を呼ぶときの声の調子とか、そういう類いのものが戻ってくるらしい。
水野遼は、その噂を信じていなかった。少なくとも、三日前までは。
市役所の道路管理課で働く遼の仕事は、夜間巡回の記録を整理することだ。どの街灯が切れかけているか、どこにひびが入っているか、照度は基準を満たしているか。地味で、静かで、誰にも覚えられないような仕事だった。
十月の終わり、巡回担当の職員が風邪で休み、遼は代わりに夜の見回りへ出た。蛍光ベストを着込み、点検表をバインダーに挟み、自転車で住宅街を流していく。風は細く冷たく、街は寝息のようにしずかだった。
問題の街灯番号十七は、川沿いの遊歩道に立っていた。市がまだ合併する前からある旧式で、根元の塗装がところどころ剥げている。昼はなんの変哲もない一本だが、夜に見ると、光の輪だけがそこに浮いているようで、妙に人を立ち止まらせた。
遼は番号札を確認し、メモを取ろうとして、足元に何かを見つけた。
小さな革の手帳だった。濃紺で、縁が擦り切れている。落とし物なら交番に届ければいい。そう思って拾い上げた瞬間、遼は胸の奥を指で弾かれたような感覚に襲われた。
冬の夕方、白いマフラー。駅前のベンチ。背の高い女の子が、少し怒ったような、困ったような顔でこちらを見ている。
「遼くんって、なんでもちゃんとしまいすぎるよね」
その声だけが、はっきり蘇った。
遼はその場で立ち尽くした。誰の記憶だろう、と一瞬考えてから、それが自分のものだと気づいた。高校三年のころ付き合っていた佐伯千紘。卒業の少し前に別れた相手だ。顔も、別れた理由も、もう曖昧になっていたのに、声だけが急に生々しく耳に残った。
手帳を開くと、中は空だった。ただ見返しに、癖のある字で一行だけ書いてある。
「返すべきものは、持ち主が決めること」
気味が悪い、と思うより先に、遼は自転車の籠へ手帳を入れた。
翌朝、道路管理課の机に着いても、千紘の声は消えなかった。書類を揃えていると、「ちゃんとしすぎ」という言葉ばかり浮かぶ。ペンの並び、印鑑の位置、メールの文面。遼は自分が整えてきたものの数だけ、こぼしてきたものがある気がした。
昼休み、給湯室で先輩の植村が缶コーヒーを振りながら言った。
「顔色わるいな。十七番でも見た?」
冗談めかした言い方だったが、遼は思わず聞き返した。
「みんな、あの噂知ってるんですか」
「この辺じゃ有名だよ。忘れたくて置いていく人と、忘れたと思って取りに来る人がいるって。まあ、道路管理課としては、違法投棄の注意喚起しかできないけどな」
植村は笑って去ったが、遼は笑えなかった。
その夜、遼は勤務のあと一人で街灯番号十七へ向かった。手帳は鞄に入れてある。確かめたいことがあった。あれが本当に自分の記憶を返したのか、それとも偶然か。
街灯の下には、先客がいた。
小柄な老女が、丸椅子みたいに低い折りたたみ椅子に腰かけて、両手を膝に置いていた。灰色のコートに、葡萄色のマフラー。こちらに気づくと、老女は少しだけ顎を引いた。
「順番待ちかい」
遼は曖昧に会釈した。
「いえ、その……落とし物を拾って」
「なら、あなたのほうが先かもしれないねえ。ここはそういう場所だから」
老女の声は乾いていたが、不思議と耳に残る柔らかさがあった。遼は少し迷ってから、手帳を取り出した。老女の目が細くなる。
「それ、あなたの?」
「違うと思います。たぶん。でも拾ったら、昔のことを思い出して」
「そういうこともあるよ」
老女は街灯を見上げた。光がしわの奥にやさしく溜まっている。
「私はね、夫の笑い方を受け取りに来たの」
あまりに静かな口調で言うので、遼は聞き返せなかった。
「三年前に死んでね。顔も声も、まだ覚えているつもりだった。でも、笑うときに少し肩が先に揺れる癖だけ、急になくなってしまって。忘れても困らないようなことかもしれないけど、私はあれが好きだったのよ」
老女は少し笑った。
「年寄りはね、大きなことより、どうでもいいことのほうを抱いて生きるんだよ」
遼は手帳を握り直した。千紘のことを、思い出したかったのか、思い出したくなかったのか、自分でもわからない。ただ、失くしたものの輪郭だけが、胸の内側で冷えていた。
「もし戻ってきたら、どうするんですか」
「家に帰る。お茶をいれて、ちゃんと笑ってみるよ。思い出ってのは、しまい直せるからね」
その言葉が、遼には少し意外だった。思い出したものは、抱え続けるしかないと思っていた。忘れるか、刺さるか、その二つだけだと。
沈黙ののち、老女は遼の手元を見た。
「見返してみなさいな」
手帳を開くと、空白だったページの中央に、薄く文字が浮かんでいた。インクが紙の裏から滲み出てくるみたいに、ゆっくりと。
「ごめん、じゃなくて、ありがとうって言ってほしかった」
千紘の字ではなかった。けれど、その一文を見た瞬間、遼は別れ際の情景を思い出した。
進路のことで、千紘は東京の大学へ行くと言った。遼は地元に残って公務員試験を受けるつもりだった。遠距離になるね、と彼女は笑った。遼は現実的なことばかりを並べた。お金、時間、続く保証。最後に千紘は「応援してる」と言ってくれたのに、遼は不安を整頓するのに忙しくて、感謝を返さなかった。
別れたのは価値観の違い、だと遼はずっと思っていた。でもたぶん、もっと小さな欠けだったのだ。ありがとうを言わなかったこと。大事なものほど、きれいにしまおうとして手を離してしまったこと。
遼が顔を上げると、老女は目を閉じていた。街灯の光の輪の中で、彼女の肩がほんの少し、先に揺れた。
それを見た瞬間、老女はふっと息を漏らして笑った。驚くほど若い笑い声だった。
「ああ、これこれ」
目尻を押さえながら、老女は何度も頷いた。
「うちの人、こうやって笑ったんだよ」
遼は何も言えなかった。奇跡を見た、というほど派手ではない。ただ、失われていた細い糸が、確かに誰かの指先へ戻っていくのを見た気がした。
老女は椅子を畳んで立ち上がった。
「あなたも、返しに行けるなら行ったほうがいい」
「今さらでも、ですか」
「今さらって言うのは、たいてい自分を守るための言葉だよ」
老女はそう言って、遊歩道の向こうへ歩いていった。振り返らない背中は小さいのに、不思議と夜に沈まなかった。
遼はその場に一人残り、スマートフォンを取り出した。千紘の連絡先は消していたが、共通の同級生を何人か辿れば、たぶん届く。迷いはあった。今さらだという気持ちも、もちろんある。けれど、あの一文を抱えたまま何年も黙っているよりは、ずっとましな気がした。
長い文章はやめた。
久しぶり。急に連絡してごめん。
高校のとき、進路の話をしてくれたのに、ちゃんとありがとうを言わなかったのを、今になって思い出しました。
あのとき応援してくれて、うれしかった。
遅くなったけど、ありがとう。
送信ボタンを押すまでに一分かかった。押してしまえば、夜風は少しだけぬるく感じた。
足元を見ると、革の手帳はもうなかった。最初から何もなかったみたいに、街灯番号十七の根元には乾いた葉が二枚落ちているだけだった。
翌朝、遼は出勤前に遊歩道へ寄った。街灯は相変わらず古く、塗装も剥げ、昼の光の下ではただの設備にしか見えない。点検表に書くなら「要経過観察」くらいだろう。
けれど遼は、番号札の「17」を見上げて、少しだけ頭を下げた。
午前十時すぎ、机の上でスマートフォンが震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。
ありがとう、を覚えていてくれたことに、こっちが驚きました。
私は元気です。
遼くんも、ちゃんとしすぎないでね。
遼は思わず笑った。たしかに、肩が少し先に揺れた気がした。
その日から、遼は相変わらず書類を揃え、街灯の記録をつけ、地味で静かな仕事を続けた。ただ、何もかもをしまい込むのはやめた。言うべきことは、たとえ遅れても言葉にする。失くしたと決めつける前に、まだ返せるものがあるかを考える。
街の夜は今も変わらず、街灯番号十七は川沿いを照らしている。
忘れることが悪いわけではない。
しまい直せる思い出があるように、返し直せる言葉もある。
そのことを知っている灯りが、ひとつくらい街にあってもいい、と遼は思う。