短編
三毛猫失踪事件
近所の掲示板に貼られた一枚の貼り紙をきっかけに、退屈な日常に潜むささやかな謎を追う物語。
僕がこの小さな事件に首を突っ込むことになったのは、本当に些細な偶然からだった。
その日、僕は燃えるゴミを出すために、朝の気だるい空気の中を歩いていた。電柱の掲示板に、一枚の真新しい貼り紙があるのが目に入る。クリーム色の画用紙に、丁寧な手書きの文字。そして、カラーコピーされた猫の写真。
「探しています」
その下に、名前は「ミケ」、三毛猫のメス、年齢は3歳、赤い首輪をしている、といった特徴が続く。連絡先は、僕の住むアパートから二軒隣の、古い一軒家の田中さん宅になっていた。写真のミケは、陽だまりの中で気持ちよさそうに目を細めている。見慣れた、この近所の平和の象徴のような猫だった。
退屈だった。大学の夏休みは長く、友人たちは皆、帰省や旅行で街を離れていた。僕は特にやることもなく、ただ時間を持て余していた。だから、というわけでもないが、その貼り紙は妙に僕の心に引っかかった。
「ミケ、どこに行ったんだろうな」
ゴミ捨て場からの帰り道、僕は無意識に辺りを見回していた。探偵ごっこ、とでも言うのだろうか。そんな幼稚な考えが頭をよぎり、少しだけ口元が緩んだ。
最初の「手がかり」を見つけたのは、その日の午後だった。近所の子供たちが遊ぶ小さな公園のベンチの下。そこに、真新しい魚の骨が一本、綺麗に食べられて落ちていた。スーパーのパックに入っているような、塩鮭の切り身の骨だ。カラスが運んできたのかもしれない。でも、なぜわざわざベンチの下に?まるで、誰かが隠れて食べたかのように。
僕はスマートフォンを取り出し、その骨を写真に撮った。後から見返すと、我ながら馬鹿げたことをしているな、と笑ってしまったが、その時の僕は妙に真剣だった。
翌日、僕は田中さん宅を訪ねてみた。チャイムを鳴らすと、奥さんが出てきて、僕が同じアパートの住人だと知ると少しだけ安心した顔をした。
「ミケちゃん、見つかりましたか?」
「いいえ、まだなのよ。心配で…」
奥さんの話では、ミケは二日前の夕方から姿が見えないらしい。普段は遠出をしない、食いしん坊でおとなしい猫だという。
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
僕の刑事ドラマのような質問に、奥さんは少し戸惑いながらも、首を捻った。
「そういえば…あの子、最近よく、お隣の鈴木さんの家の庭を眺めていたわね」
鈴木さん。僕のアパートの真下の一階に住んでいる、若い夫婦だ。特に付き合いはないが、時々ベランダで楽しそうに話しているのを見かける。
新たな情報を得て、僕の探偵ごっこは少しだけ現実味を帯びてきた。鈴木さんの家の庭。何かあるのだろうか。僕はアパートの自室のベランダから、そっと階下の庭を覗き見た。
綺麗に手入れされた庭だ。季節の花が咲き、小さな家庭菜園にはトマトが赤く実っている。特に変わった様子はない。ただ、一つだけ。庭の隅に置かれた、古い木箱。DIYにでも使ったのだろうか、ペンキの缶などが無造作に突っ込まれている。その木箱の横に、小さな水の入った皿が置かれているのが見えた。猫用にしては少し小さいが、それでも、誰かが意図的に置いたものであることは明らかだった。
まさか、鈴木さん夫婦がミケを?いや、そんなはずはない。彼らは猫を飼っている様子もなかったし、何より、そんなことをするような人たちには見えなかった。
その夜、僕は考えを巡らせていた。魚の骨、鈴木さんの庭、水の皿。バラバラのピースが、頭の中でうまく繋がらない。
ふと、窓の外から微かな物音が聞こえた。
「…みゃあ」
猫の鳴き声だ。か細く、弱々しい。僕は息を殺して耳を澄ませた。音は、どうやらアパートの裏手の方から聞こえてくるようだった。
僕はそっと部屋を抜け出し、アパートの裏に回った。古いブロック塀と、アパートの壁に挟まれた、狭い通路。普段は誰も通らないような場所だ。スマートフォンのライトを頼りに進むと、突き当たりの、今は使われていないプロパンガスのボンベ置き場の影に、何かが蹲っているのが見えた。
ミケだった。赤い首輪が薄暗がりの中でも確認できる。しかし、様子がおかしい。ミケは僕を見ても逃げようとせず、ただ、何かを庇うように丸くなっている。
僕がゆっくりと近づくと、ミケの腕の中から、小さな子猫たちが、か細い声で鳴きながら顔を出した。三匹。白、茶色、そしてミケと同じ三毛。
そうか、そういうことだったのか。
ミケは子供を産んでいたのだ。人目を避けて、安全な場所を探して。僕が見つけた魚の骨は、おそらく母猫になったミケが、体力をつけるために必死で手に入れた食料だったのだろう。公園のベンチの下で、人目を忍んで。
鈴木さんの庭の水の皿も、きっと彼らがミケの異変に気づき、そっと置いてやったものに違いない。庭の木箱のあたりで子育てをしようとしていたミケを、驚かせないように。
僕はすぐに田中さんに電話をした。夜分にも関わらず、奥さんは電話口で泣きそうな声で喜んでくれた。すぐに夫婦で駆けつけてきて、ミケと子猫たちを、大切そうに毛布で包んで連れて帰っていった。
「ありがとう、本当にありがとう」
何度も頭を下げる田中さん夫婦に、僕は少し照れながら「いえ、偶然見つけただけですから」と答えるのが精一杯だった。
部屋に戻り、ベッドに寝転がる。窓の外は、すっかり静まり返っていた。
結局、事件なんてどこにもなかったのだ。あったのは、新しい命の誕生と、それを見守る人々の、ささやかな優しさだけだった。
退屈だった夏休みが、少しだけ特別なものになった気がした。僕はこの街の、ほんの小さな秘密を知ってしまった。そして、その秘密は、温かくて、少しだけ誇らしい。
明日から、また退屈な日常が始まる。でも、きっと、今日の日のことを時々思い出すだろう。そして、この静かな街のどこかに隠れているかもしれない、次の小さな謎を、無意識に探し始めてしまうのかもしれない。