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短編

古書の中の顔

古本に挟まっていた一枚の写真。その日から、日常が静かに侵食されていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#古書#写真#呪い

神保町の古本屋街は、埃と紙の匂いがした。学生の健司は、レポートの資料を探すでもなく、ただ時間潰しにその迷宮を彷徨っていた。ある店の隅、うず高く積まれた本の山から、彼は一冊の文庫本を抜き取った。カビ臭いその本は、彼が知らない作家の短編集だった。パラパラとページをめくると、中から一枚の写真が滑り落ちた。

それは古い白黒写真だった。裕福そうな家族が、立派な日本家屋の前で微笑んでいる。父親、母親、そして幼い姉弟。ありふれた、幸福な一瞬を切り取ったものに見えた。だが、健司は妙な違和感を覚えた。父親の顔だけが、僅かにぶれているのだ。シャッターが切られる瞬間に、彼だけが動いてしまったかのように。

健司は写真を拾い上げ、再び本に挟んでレジへ持っていった。店主の老人は、本の値段を告げるだけで、写真には一瞥もくれなかった。

アパートに帰り、健司は机の上にその本と写真を置いた。特に意味はなかった。ただの気まぐれだ。しかし、その夜から奇妙なことが起こり始めた。部屋に一人でいるはずなのに、誰かの視線を感じる。気のせいだと自分に言い聞かせた。

翌日、大学からの帰りの電車で、窓に映る自分の顔の隣に、一瞬、ぼやけた男の顔が見えた気がした。心臓が跳ねた。見間違いだ。疲れているんだ。そう思い込もうとしたが、その顔は写真の父親の顔に似ていた。

部屋に帰ると、まず写真を確認した。家族は変わらず微笑んでいる。だが、父親の顔のぶれが、昨日よりも酷くなっているように見えた。まるで、顔が溶け出しているかのように。恐怖が背筋を這い上がった。

健司は写真をゴミ箱に捨てた。しかし翌朝、机の上には何事もなかったかのように写真が戻っていた。まるで誰かが拾って置いたかのように。健司は写真を燃やそうとした。ライターの火を近づけても、写真の端が黒ずむだけで、一向に燃えようとしなかった。

彼は次第に憔悴していった。友人との約束も断り、部屋に引きこもるようになった。鏡を見るのが怖かった。電源の落ちたスマートフォンの画面に、不意にあの顔がよぎるからだ。それはもはや、ただのぶれた顔ではなかった。憎悪と苦悶が渦巻く、おぞましい何かに変貌していた。

ある晩、健司は金縛りにあった。体が動かない。目だけがかろうじて開いていた。部屋の隅の暗闇が、ゆっくりと人型に盛り上がっていく。それは背の高い男の影だった。そして、その顔があるべき場所は、黒い渦のように乱れていた。写真の男だ。

影は音もなく健司に近づいてくる。渦巻く顔の中心から、声にならない声が聞こえた。「代わってくれ」と。健司は声にならない悲鳴を上げた。

数日後、健司を心配した友人がアパートを訪ねた。何度呼び鈴を鳴らしても応答はない。大家に頼んで鍵を開けてもらうと、部屋はもぬけの殻だった。健司の姿はなく、荷物もほとんど消えていた。ただ、机の上には、あの古本と一枚の写真だけが残されていた。

友人は写真を手に取った。そこに写っている家族は、以前と何も変わらないように見えた。だが、彼は気づいてしまった。父親の隣に立つ母親の腕に、見覚えのある腕時計が巻かれている。それは健司がいつも身につけていたものだ。そして、父親の顔があった場所には、今、別の男が立っていた。その顔は、激しくぶれていて、誰なのか判別できなかった。