短編
壁の音
静かなアパートの壁から聞こえる奇妙な音。その正体を探るうちに、男は逃れられない恐怖に引きずり込まれていく。
僕が住んでいるアパートは、築三十年ほどの古い木造建築だ。壁が薄いのが玉に瑕だが、駅からも近く、家賃も手頃なので気に入っている。隣には、物静かな老婆が一人で住んでいるらしかった。顔を合わせれば会釈する程度の関係だ。
異変が起きたのは、一ヶ月ほど前のことだった。
夜、ベッドに入って本を読んでいると、隣の部屋から音が聞こえてくる。コン、コン、コン、と何かを叩くような、規則正しい音。最初は、老婆が何か作業でもしているのだろうと、特に気にしていなかった。しかし、その音は毎晩のように、決まって僕が眠りにつこうとする深夜に聞こえてくるのだ。
ある晩、あまりにしつこく続く音に苛立ち、僕は壁をドンと叩いてみた。すると、音はぴたりと止んだ。静寂が戻り、僕はほっとして眠りについた。
しかし、翌日の深夜。また同じ音が聞こえてきた。コン、コン、コン……。昨日よりも、心なしか力強い。まるで、こちらを挑発しているかのようだ。僕は再び壁を叩いたが、今度は音は止まない。それどころか、叩くリズムが僕の心臓の鼓動と重なってくるような、嫌な感覚に襲われた。
気味が悪くなって、僕は翌日、隣の部屋のドアを叩いてみた。応答はない。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっておらず、あっさりと開いた。中はがらんどうだった。家具も、生活の痕跡も何もない。ただ、部屋の真ん中に、ぽつんと黒い椅子が置かれているだけ。そして、床にはうっすらと埃が積もっていた。老婆は、とうの昔に引っ越していたのかもしれない。
では、あの音は一体どこから?
その夜も、音は聞こえてきた。コン、コン、コン……。僕は恐る恐る、壁に耳を当てた。音は、壁の向こう側からではない。もっと近く、まるで壁の中から直接響いてくるようだった。
全身に鳥肌が立った。僕が耳を当てている、まさにその場所から、音がしている。
コン、コン、コン……。
僕は息を殺し、壁の中の音に集中した。すると、叩く音が不意に止んだ。
静寂。
安堵のため息をつこうとした、その瞬間。
壁の中から、か細い、しゃがれた声が聞こえた。
「……やっと、気づいたのかい」