短編
顔を売る自動販売機
深夜、奇妙な自動販売機で飲み物を買った男が体験する、顔を奪われる恐怖。
終電を逃し、湿った夏の夜道を歩いていた。普段ならタクシーを拾うところだが、その日に限って持ち合わせが心許なかった。見慣れない住宅街に迷い込み、喉の渇きが限界に達した頃、不意に現れた光に引き寄せられた。
古い自動販売機だった。街灯もまばらな角地に、それだけがぼんやりと浮かび上がっている。見たこともないメーカーのロゴが錆び付いており、商品の見本は色褪せて、何を売っているのか判然としない。不気味だったが、選択肢はなかった。千円札を吸い込ませ、一番まともそうに見えた「天然水」のボタンを押す。
ガコン、と鈍い音を立てて、取り出し口に缶が落ちてきた。手に取ると、ひんやりとしているはずのそれは、妙に生温かい。そして、何の変哲もない銀色の缶には、商品名も成分表示も、何も印刷されていなかった。
躊躇いは一瞬。喉の渇きには勝てず、プルタブを引いた。口に含んだ液体は、水とは似ても似つかない、鉄のような味がした。気味が悪くて半分も飲めずに、近くのゴミ箱にそれを捨てた。
少し歩くと、胃のあたりから何かがせり上がってくるような感覚に襲われた。吐き気かと思ったが、違う。それはもっと物理的な、内側から皮膚を押し広げられるような、不快な感触だった。
ふと、通りかかった店のショーウィンドウに自分の姿が映る。そこにいたのは、紛れもなく自分だった。だが、何かがおかしい。顔の輪郭が、まるで粘土のように、ゆっくりと、しかし確実に崩れていく。目も、鼻も、口も、元の場所からじわじわと溶け出している。
恐怖に駆られて、来た道を引き返した。あの自動販売機だ。あれを飲んだからだ。角地に戻ると、自販機はまだそこにあった。しかし、その姿は先ほどと決定的に違っていた。
商品の見本が並んでいたはずのディスプレイには、ずらりと人間の顔が陳列されていた。無表情の、蝋人形のような顔。老人、若者、女、そして子ども。その中に、見覚えのある顔を見つけた。数分前の、まだ崩れていなかった、自分自身の顔だ。その顔があった場所は、今は空っぽになり、「売り切れ」の赤いランプが灯っている。
叫ぼうとした。だが、喉から漏れたのは、意味をなさない空気の音だけだった。自分の顔だった場所は、今やのっぺらぼうになっているだろうか。意識が遠のいていく。体が、自分の意志とは関係なく、ふらふらと歩き出すのを感じながら。
暗闇の向こうで、また一人、喉の渇きを覚えた誰かが、あの光に吸い寄せられていくのが見えた。