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短編

三分遅い時計

商店街の時計店で働く女が、三分遅れたまま止められない一台の時計を通して、しまいこんでいた別れに小さな決着をつける話。

Genre
現代 фантаジー
Series
単発
#時計#商店街#手紙#記憶#再生

春の終わりの雨は、商店街のアーケードを古びた水槽のように見せた。
「時任時計店」は、そのいちばん奥にある。眼鏡屋と畳屋に挟まれた、小さくて暗い店だった。壁じゅうに時計がかかっているのに、店に満ちているのは時間ではなく、長いあいだ人に触れられてきた物の匂いだった。金属の冷たさ、油の乾き、紙の箱に染みついた湿気。そういうものが、古い曲を覚えているラジオみたいに、静かに空気の中で鳴っていた。

店を継いだのは、三十を過ぎたばかりの真緒だった。父が急に亡くなって、母は早くに家を出ていたから、自然とそうなった。継いだ、といっても、父ほど腕がいいわけではない。ゼンマイの癖を聞き分けることも、歯車の古傷を見抜くことも、まだうまくできない。ただ、電池交換とベルトの調整、それから、遅れたり進んだりする時計を「もう少しだけ持つように」整えることはできた。

商店街には、妙に時計にうるさい人が多い。病院の受付をしている佐伯さんは「一分進んでると落ち着く」と言い、花屋の店主は「きっちり合ってると息苦しい」と言って二分遅らせる。真緒は客の好みを覚えていて、受け取った腕時計の裏に小さな付箋を貼る。
一分進み。
二分遅れ。
正確。
だいたいで可。

ただ、一台だけ、どうしても三分遅れたままの時計があった。

店のいちばん奥、修理台の上の棚に置かれた丸い置時計だった。乳白色の文字盤に細い黒針。縁に小さな打痕がいくつもある。父が生前、店ではなく家の食卓に置いていたものだ。朝食の湯気の向こうで、父はよくその時計を見ていた。見ていたというより、確かめていた。遅れていることを知っていて、なお、それをそのままにしていた。

真緒は何度も直した。裏蓋を開け、埃を払い、部品を替え、油を差した。すると確かに動きはする。だが、きまって一晩置くと三分遅れる。進みもせず、止まりもせず、いつもきっかり三分だけ遅れて、翌朝の店の薄暗がりの中で平然と時を刻んでいる。

父の癖だったのかもしれない、と最初は思った。だが父は、客の時計には容赦なく正確さを求めた人だ。自分のものだけを曖昧にする理由が、真緒には分からなかった。

雨の火曜日、店に郵便が届いた。電気料金の明細、部品商の封筒、それから、見覚えのある丸い字で宛名が書かれた茶封筒。
真緒様。
差出人はない。切手も古い。今はもう使われていない、どこかの記念切手だった。

封を切ると、便箋が一枚だけ入っていた。

「店の時計が三分遅れていたら、そのままにしておいてくれ」

父の字だった。

それだけではない。続きがあった。

「間に合わなかった、という顔をおまえがあんまり長くしないように」

真緒はそこで便箋を持つ手を止めた。雨音がアーケードの屋根を細かく叩いている。壁の時計がいっせいに別々の秒を刻んでいる。その全部が、急に遠くなった。

父が倒れた日のことを、真緒はたしかに「間に合わなかった日」として覚えていた。朝、父はいつもどおり店を開け、昼前に軽いめまいがすると言って奥で休んだ。真緒は仕入れの確認に出ていて、戻ったときには救急車が来ていた。商店街の人たちは「急だったねえ」と言ったが、真緒の耳には「遅かったねえ」と聞こえた。たぶん誰もそんなことは言っていないのに、その日からずっと、真緒は心のどこかで三分か五分か十分か分からない遅れを自分に課してきた。

便箋の最後には、さらに小さく書き添えられていた。

「昼の薬を飲むのをよく忘れるから、食卓の時計を三分遅らせておいた。十二時になったと思って薬を飲むと、本当はまだ少し早い。医者に言われた時間にはちゃんと間に合う。人は進ませることばかり考えるけど、少し遅らせて助かることもある」

真緒は思わず笑ってしまった。泣く前に、笑ってしまった。そんなずるい理屈を、父はよく使った。店の売上が悪い月には「忙しくないんじゃない、丁寧に暮らせってことだ」と言い、茶碗を割れば「欠けたほうから先に冷めるから猫舌向きだ」と言った。そういう可笑しさで、どうにか毎日をやり過ごす人だった。

けれど便箋は、そこで終わらなかった。

「それから、もし店を継ぐなら、あの時計は直さなくていい。目印になる。おまえはなんでもきっちりしようとするから、ひとつくらい、遅れていても大丈夫なものが見えるところにあったほうがいい」

真緒は棚の上の置時計を見た。秒針は、いかにも当然という顔で、少しずつ遅れた現在を生きていた。父はこの時計を、時間を知るためではなく、許すために置いていたのだと、そのときやっと分かった。

夕方、花屋の店主が濡れた傘をたたんで入ってきた。
「真緒ちゃん、うちの壁掛け、また進んじゃって」
「今日は何分にします」
「雨の日だから、一分遅れで」
「雨の日だけですか」
「ちょっと余裕がある気がするでしょ」

真緒は笑って時計を受け取った。工具箱を開ける指先が、いつもより軽い。これまで彼女は、客の望むずれを、単なる気分の問題だと思っていた。几帳面な人の験担ぎ、せっかちな人の癖、そういうものとして。しかし違ったのだ。人にはそれぞれ、自分が呼吸しやすい時刻がある。ぴたりと合った時間だけが、正しい時間ではない。

閉店後、真緒は店の時計を一つずつ見回った。正確なもの、少し進んだもの、なぜか半日ごとに機嫌の変わるもの。最後に、棚の上の置時計をそっと食卓代わりの小机へ移した。父が家でしていたように、湯のみの隣に置く。三分遅れた針は、店の静けさの中で妙にやさしく見えた。

その夜、真緒は店の帳簿の余白に、新しい張り紙の文句を書いた。

「時計の調整、承ります。正確にも、少しだけあなた向きにも」

翌朝、それを入口のガラスに貼った。商店街を通る人が立ち止まり、何人かが首をかしげ、八百屋の主人が「なんだそれ」と笑った。真緒も「なんでしょうね」と笑った。説明のつかないことを、無理に説明しないで済む朝だった。

開店からほどなくして、小学校の教師だという若い男が腕時計を持ってきた。
「すみません、変なお願いなんですが」
「うちは変なお願いが多いので大丈夫です」
「じゃあ、二分遅らせてもらえますか。授業の終わりを、いつも急かしすぎる気がして」
真緒は小さくうなずいた。
「できますよ」

時計を受け取るとき、店の奥で三分遅れの置時計が、控えめな音で次の一分を知らせた。
少し遅れて届くものがある。
少し遅れて分かることもある。
間に合わなかったと思っていた日々にさえ、あとから別の意味が追いついてくることがある。

真緒は腕時計の裏蓋を開けながら、ふと、父が最後まで店を離れなかった理由を考えた。たぶん、この場所には人が持て余した時間がよく集まってきたのだ。急ぎすぎる時間、止まってしまった時間、置いていかれた時間。そういうものを預かって、少しだけ暮らしになじむ形に直して返す。それがこの店の仕事だったのかもしれない。

店の外では雨が上がり、アーケードの切れ目から薄い日が差してきた。濡れた路面が明るくなり、商店街の古びた看板が一枚ずつ、眠りから起こされるみたいに色を取り戻していく。

真緒は作業の手を止めずに、棚の時計へ目をやった。
三分遅れたまま、それでも確かに進んでいる。

それでいいのだ、と今は思えた。
人が前を向くのに必要なのは、いつも正しさではない。
ときどきは、ほんの少しだけ、自分を待ってくれる時間なのだった。