短編
雨の三拍子
閉まりゆく商店街の傘修理店で、亡き人の記憶は声ではなく仕草として残ることを、店番の私は知っていく。
うちの店には、修理した傘の内側に小さな札を結ぶ癖がある。
札といっても値札ではない。親指の爪ほどの細い紙で、修理した日付と、ひとことだけを書く。たとえば「風の強い日は持たないこと」とか、「駅で忘れやすい」とか、「右手で開くと骨が長持ちする」とか。前の店主だった伯母は、それを雨札と呼んでいた。
「人は貼り紙を読まないけど、傘の内側なら見るからね」
そう言って伯母は笑った。
「それに、傘ってのは案外、言いつけを守るんだよ。人間よりずっと素直」
商店街のアーケードが今月いっぱいでなくなると決まってから、店に来る傘は減った。新しいものを買うほうが早い時代だし、そもそも商店街に人がいない。八百屋は去年閉め、薬局は昼だけ開けるようになり、うちの向かいの喫茶店は窓ガラスの内側に観葉植物だけを残して消えた。
それでも雨の日には、ぽつりぽつりと客が来る。
木島さんが初めて黒い長傘を持ち込んだのは、梅雨のはじめだった。五十代くらいに見える、背の高い人で、濡れた肩をあまり払わない人だった。骨が二本曲がり、石突きもすり減っていた。傘布はまだしっかりしているのに、持ち手だけが妙になめらかで、長く使われた石鹸みたいに角がなくなっていた。
「直せますか」
私は傘を開き、骨を一本ずつ確かめた。
「直せます。持ち手は替えますか」
「それは、このままで」
少し間があってから、
「手で分かるので」
と木島さんは言った。
その言い方が、妙に耳に残った。
修理を預かってから三日で仕上がったが、木島さんは受け取りに来なかった。電話番号は書いてもらっていない。雨の合間の晴れた日がつづき、そのあいだ私は、修理の終わった黒い傘を入口の奥に吊るしていた。
ある午後、雨札を結ぼうとして、私は傘の内側、ろくろに近いところに古い糸の跡を見つけた。誰かが前にも雨札をつけていたのだ。骨に引っかかるように、小さな紙片が残っていた。開ききらない布の影にへばりついて、黄ばんでいる。
そっと剥がすと、伯母の字が出てきた。
六月三日 まっすぐ帰ること
伯母の字は、濃い鉛筆で押しつけるように書く癖があった。最後の「と」が少し右上がりになる。その癖までまるごと、紙に残っていた。
まっすぐ帰ること。
注意書きにしては奇妙だった。傘への指示というより、誰かへの言い聞かせみたいだった。
次の雨の日、木島さんが来た。店の前で傘をたたみ、しずくを三度、きっ、きっ、きっと払ってから入ってきた。正確に三回。濡れた犬みたいに大きく振るのではなく、手首だけで小さく、几帳面に。
「出来てます」
私は黒い傘を出して、古い雨札のことを訊こうか迷った。迷っているうちに、木島さんは持ち手を握り、ほっとしたように息をついた。
「これです」
握っただけで分かるのだな、と思った。
会計のあと、私はつい紙片を見せた。
「内側に、前の札が残っていました。伯母の字です。これ、お心当たりありますか」
木島さんは紙片を見て、しばらく黙った。店の外では、シャッターの降りた文具屋の庇から水が落ちつづけていた。
「妻です」
やがて木島さんは言った。
「この傘は、妻のものでした」
伯母の店には、昔からよく来ていたらしい。木島さんの奥さんはひどい雨女で、晴れていても折りたたみを二本持つ人だったという。六月三日がなんのことか、私は聞かなかった。けれど木島さんは自分から話した。
「喧嘩した日なんです」
紙片を見たまま、静かに。
「大したことじゃないんですけど。カレーにじゃがいもを入れるかどうかで」
私は思わず笑いそうになり、でも笑わなかった。
「妻は、怒ると寄り道する人で。喫茶店に入ったり、本屋で立ち読みしたり、わざと遠い道で帰ったり」
「はい」
「その日は雨で、伯母さんに傘を直してもらって、たぶん言われたんでしょうね。まっすぐ帰ること、って」
木島さんはそこで初めて、ほんの少し笑った。
「伯母さん、ずいぶん口が悪かったから」
「ええ、かなり」
口が悪くて、親切だった。伯母は人を慰める代わりに、魚の骨みたいな一言を渡す人だった。
「妻は、その紙を気に入っていました」
木島さんは続けた。
「でも、先に字が薄れてしまって。最近は、もう声も思い出せないんです」
その言い方は大げさではなかった。忘れたことを悲鳴にせず、ただ事実として差し出す人の声だった。
「でも」
と木島さんは言った。
「傘を閉じるときの音だけ、残ってるんです」
そう言って、受け取った傘を閉じた。きっ、きっ、きっ。三回。さっき店の前でやったのと同じ、小さな手首の動きだった。
「妻の癖なんです。玄関に入る前に、三回、しずくを切る。下手なんで、毎回一回目では切れなくて」
私はそれを聞いて、急にあの持ち手のなめらかさが分かった気がした。手で覚えていたのは、形だけではなかったのだ。握り方、閉じ方、雨を払う回数。声より先に消えずに残るものがある。
木島さんが帰ったあと、私は店の奥で、伯母の古い修理帳をめくった。六月三日、黒長傘一本、骨継ぎ、石突き交換。備考欄にだけ、ぶっきらぼうな字でこうあった。
寄り道禁止。今日は帰れ。
私は声を出して笑ってしまった。なんて乱暴な励まし方だろう。
月末、商店街の取り壊し前日、朝からひどい雨が降った。私は半分閉めたシャッターの下で最後の店番をしていた。修理道具は箱に詰め、看板も外した。空っぽになった店は、傘をひらいたあとの骨組みみたいに見えた。
昼すぎ、木島さんがふらりと現れた。黒い傘を差していた。
「お別れを言いに」
と言って、入口のところで傘を閉じた。きっ、きっ、きっ。雨の粒が、舗道の割れ目に小さく散った。
「この店がなくなる前に」
私はうなずいた。
「別の場所で続けます。駅の北口で、小さく」
「それはよかった」
沈黙が落ちたが、不思議と気まずくなかった。雨脚が強くなり、アーケードの隙間から吹きこんだ風が、天井の古い旗を揺らした。
「最近、思うんです」
木島さんが言った。
「忘れるって、なくなることじゃないのかもしれませんね」
「ええ」
「残り方が変わるだけで」
そのとき私は、伯母がなぜ傘に札を結んでいたのか、少しだけ分かった気がした。言葉を残したかったわけではないのだ。次にその傘を開く誰かの手が、ほんの一瞬でもそこで立ち止まるように。忘れないためではなく、思い出し方を変えるために。
私は新しい雨札をひとつ書いた。細い紙に、鉛筆で。
雨の日は、三回でいい
「これ」
黒い傘の内側に結ぶと、木島さんは目を細めた。
「伯母さんなら、もっと偉そうに書いたでしょうね」
「ええ。たぶん『四回は間抜け』とか」
木島さんは声を出して笑った。雨の音に混じる、軽い笑いだった。
帰り際、木島さんは店先で振り返った。
「じゃがいも、結局入れるほうでした」
「カレーにですか」
「はい。負けました」
そう言って傘を開く。黒い布が、暗い商店街にひとつだけきちんとした円をつくった。木島さんはその下に入って、もう一度だけこちらを見た。それから、まっすぐ歩いていった。
私はシャッターを最後まで降ろす前に、何もなくなった店内を見渡した。針金、ペンチ、替え骨、残った札の束。ここにいた人たちの声は薄れても、手つきは残るのだろう。傘を受け取るときの握り方。小銭を置く位置。しずくを払う回数。
雨は相変わらず降っていた。私は店の鍵をかけ、自分の傘をひらいた。伯母の真似をするつもりはなかったのに、玄関の外で、手首が自然に三度動いた。
きっ、きっ、きっ。
それだけで、商店街の灯りが消えたあとも、誰かはまだちゃんと帰っているのだと思えた。