短編
隣になる
空室のはずの隣室から毎晩届く呼びかけに応じた夜、私の部屋の位置が静かにずれた。
古い団地に越してきたのは、安かったからだ。
正確には、安くなければ越せなかったからだ。三十を過ぎて、校正の仕事を自宅で請けるようになってから、人と顔を合わせる機会はめっきり減った。別れた恋人が置いていったマグカップをひとつ割っただけで、一週間ほとんど誰とも話さずに済んでしまったことが、引っ越しを決めた最後の理由だった。もう少しだけ、生活の輪郭がはっきりした場所に行きたかった。
けれど新しい部屋は、輪郭ばかりがはっきりしていた。
コンクリートの角、灰色の廊下、錆びた手すり、夜になると蛍光灯の唸りがよく聞こえる薄い壁。私の部屋は四〇一号室で、隣の四〇二号室は空いていると不動産屋は言った。郵便受けには何もなく、表札も外され、ドアノブには細い傷が無数についていた。
越して三日目の夜、インターホンが鳴った。
時刻は午前一時十二分。こんな時間に来客があるはずもない。受話器を取らず、受話器の横の小さなモニターを見ると、廊下の薄暗い壁しか映っていなかった。
気味が悪くて、そのままにしていると、ピーッという電子音のあと、女の声が流れた。
「佐久間さん、いらっしゃいますか」
留守番録音だった。
古い機種で、来客があったとき不在なら短いメッセージを残せるらしい。説明書はなく、私はそんな機能も知らなかった。
女の声はひどく落ち着いていて、年齢がわからなかった。若くも老いてもいない、乾いた声だった。
「起きていらしたら、ひとつだけ、返事をください」
そこで録音は切れた。
佐久間という名に心当たりはない。間違いだろうと思った。だが次の夜も、そのまた次の夜も、午前一時十二分きっかりにインターホンは鳴った。モニターには何も映らず、録音には同じ女の声が残る。
「佐久間さん、いらっしゃいますか」
「起きていらしたら、ひとつだけ、返事をください」
不思議なのは、声がどこか外からではなく、もっと近いところから聞こえることだった。受話器の中ではなく、壁の向こうから直接響いてくるような、乾いた近さがあった。
管理人に聞くと、四〇二号室は半年前から空室だと言った。
「前にひとりで住んでたおばあさんが、施設に入ってね。荷物は親族が片づけたよ」
「その部屋、インターホンつながったままなんですか」
「まさか。電気も止めてる」
管理人は笑ったが、その笑い方が、私には少し早すぎるように思えた。詳しく聞く気を失わせるための笑い方だった。
その夜、私は机の上の原稿から目を離せなかった。
文章の誤字を追う仕事は、視線を細く長くしていく。現実まで校正できる気になってくる。ここが静かすぎる、夜が深すぎる、隣室は空いている。そう何度も頭の中で正しているうちに、午前一時十二分が来た。
鳴った。
私は受話器を取らなかった。代わりに壁へ耳を当てた。
コンクリートの冷たさの向こうで、かすかに機械音がした。カセットテープが回るような、古い再生音だった。
「佐久間さん、いらっしゃいますか」
間違いなく、隣から聞こえていた。
翌朝、四〇二号室の前に立った。ドアノブを回してみたが、もちろん鍵がかかっている。覗き穴は内側から紙で塞がれているらしく、暗かった。帰ろうとしたとき、足元で何かが擦れた。ドアの下から、内側の空気で押し出されたように、小さな紙片が出てきたのだ。
白いメモ用紙だった。罫線もない。
そこに、青いボールペンで一行だけ書いてある。
「返事をしないと、こちらが決まりません」
管理人室に持っていくのはやめた。笑われるのが先に見えたからだ。
私はメモを机の引き出しに入れ、代わりにその晩、インターホンの電源コードを抜いた。ランプが消え、液晶も暗くなる。それで少し安心した。だが午前一時十二分、何もつながっていないはずの受話器の奥から、ピーッという電子音が鳴った。
「佐久間さん、いらっしゃいますか」
そこでいつもなら終わるはずの声が、少しだけ続いた。
「そこ、寒くないですか」
私は思わず受話器を落とした。
その日は冷え込み、私は毛布を膝にかけて仕事をしていた。誰かに見えるはずがない。カーテンも閉めていた。
それから声は少しずつ変わった。
「電気、つけっぱなしですよ」
「今日は文字ばかり見ていましたね」
「眠れないなら、話しませんか」
脅かす口調ではない。責めるわけでもない。ただ、知っているというだけの声だった。知っていることを隠さない、親切にも似た口調が、いちばん堪えた。
人は、悪意よりも、当然のように踏み込んでくるものに弱い。
私はしだいに一時十二分を待つようになった。日中、人と話さないまま過ごしても、夜になればあの声が来る。気味が悪い、やめてほしい、そう思いながら、時計ばかり見た。来ない夜が一度だけあって、そのとき私は自分でも驚くほど落ち着かなかった。
翌日、受話器の赤いランプが点滅していた。
再生すると、女の声ではなかった。
「隣の方」
自分の声だった。
録音特有の平たい響きになっていても、それが私自身の声だとすぐにわかった。寝起きに水を飲んだあとの、少し掠れた声だ。
「聞こえているなら、ひとつだけ、返事をしてください」
背中がゆっくり冷えていった。
その録音を残した覚えはない。けれど、言い回しはあまりにあの声に似ていた。似ているというより、なぞっていた。
その夜、午前一時十二分ちょうどにインターホンが鳴る前から、私は受話器の前に座っていた。窓には私の顔が黒く映り、部屋は水の底のように静かだった。
鳴る。
私は初めて、受話器を取った。
雑音がひとつした。
そして、すぐそばで囁くように、あの声がした。
「こんばんは」
私は何も言えなかった。
「よかった。今日は起きていたんですね」
「……誰ですか」
「まだ決まっていない人です」
意味がわからない、と言おうとしたが、その前に声が続けた。
「そこ、まだ誰も住んでいませんよね」
私は受話器を握り直した。
「住んでます。私が」
沈黙があった。向こうで息を吸う気配がした。安心したような、小さな笑いが混じった。
「それなら、よかった」
「何が」
「次が決まるからです」
ぶつり、と音がして通話は切れた。
すぐに玄関のほうで、かたりと金属の鳴る音がした。
鍵だ、と思った。私は受話器を放り出して玄関へ走った。ドアは閉まっている。チェーンもかかっている。覗き穴を覗くと、誰もいない廊下の蛍光灯が青白く瞬いていた。
けれど、ドアの横の表札だけが違っていた。
差し込み式の古い表札に、いつのまにか白い紙が入っている。
そこに私の名字が、黒々と印字されていた。
四〇二号室の場所に。
息が詰まり、私は振り返った。
自分の部屋だと思っていた場所の壁紙が、心なしか古い。床の擦り傷の位置も違う。机の上に積んだ原稿はある。割れたマグカップの欠片もそのまま袋に入れてある。けれど、それらが「私の部屋にある」のではなく、「どこか別の部屋へ移されている」ような静かなずれが、もう隠しようもなく漂っていた。
恐る恐る玄関を開ける。
廊下の右手にあるはずの四〇二号室の扉はなく、代わりに古びた四〇一号室の扉がひとつ、ぽつんとあった。表札は空白。郵便受けも空。ずっと前から誰も住んでいない部屋の顔をしていた。
その向こう、薄い壁越しに、電子音が鳴った。
ピーッ。
私は振り向けなかった。
それでも聞こえた。受話器越しではなく、壁の向こうから、ひどく近い声で。
「隣の方」
それは、私の声だった。
「起きていらしたら、ひとつだけ、返事をください」