短編
隣室の留守番電話
空室のはずの隣室から毎夜鳴る留守番電話に耳を澄ませるうち、私は応答しなかった声たちに追いつかれていく。
その団地に越したのは、安かったからだ。
駅から遠く、古く、冬は配管が鳴る。五階建ての四階で、私の部屋は四〇六号室、その隣の四〇五号室は空室だと管理会社は言った。表札は外され、郵便受けには「チラシ投函禁止」の色褪せたシールだけが残っている。ドアノブには細い鎖が巻かれ、鍵穴には透明な養生テープが貼ってあった。
私は在宅で音声の文字起こしをしている。会議の記録、講演、取材テープ。人の声を聞いて、その輪郭を文字にする仕事だ。離婚してからはなおさら、誰かの声を長く聞いていないと、部屋の静けさが床から這い上がってくる気がした。
最初に隣室の音を聞いたのは、引っ越して三日目の夜だった。
午前二時十三分。壁の向こうで、古い留守番電話の作動音がした。カチッ、とテープが回る乾いた音。そのあと、女の声がした。
「澄江さん、いる? 私。味噌、返し忘れてて」
そこで、ピーッという発信音が短く鳴り、沈黙した。
私はイヤホンを外し、椅子の背にもたれた。団地の壁は薄い。隣人のくしゃみくらいなら聞こえるだろう。だが、空室のはずだ。
翌朝、管理会社に電話すると、若い男が事務的に答えた。
「四〇五は募集止めてます。設備不良で。電気も電話も止まってますよ」
「でも、夜に留守番電話みたいな」
「古い建物なんで、配管やエレベーターの反響じゃないですか」
そう言われると、そうかもしれないと思えた。古い建物には、説明のつく音と、説明に負けない音がある。
だが二日後、同じ二時十三分に、また鳴った。
今度は男の声だった。
「母さん、出ないのか。さっき病院から電話あっただろ。俺、夜勤で行けないから、明日の朝いく」
少し間があって、最後にかすれた息のようなものが入った。
「……聞いてるなら、返事してくれよ」
それきりだった。
私はその夜、壁に耳を当てたまましばらく動けなかった。音声を仕事にしていると、声の年齢や疲れや躊躇いがわかることがある。あの男は本気で誰かの返事を待っていた。録音でも、反響でもない、生身の期待が入っていた。
気になって調べたが、四〇五号室の前の住人について詳しいことはわからなかった。ただ、一階の掲示板前で掃除をしていた管理人の老女が、私の問いにだけ妙に小さな声になった。
「前はお婆さんが一人で住んでたよ。電話の好きな人でねえ。息子さんが遠くにいるって、よく話してた。でも亡くなってから、誰も片づけに来なかったの。中のもの、ほとんどそのまま」
「亡くなったのは、いつですか」
「三年……いや、四年前かな。夏の終わり。気づかれたのが少し遅れてね」
老女はそこまで言うと、ほうきの先で床の砂を寄せた。
「でもね、あの部屋、亡くなる前から変だったよ。電話が鳴るたび、お婆さん、誰より先に受話器を取るのに、取っても何も喋らなくなったって」
その日から、私は二時十三分の前になると自然に仕事の手を止めるようになった。鳴るのを待っているのだと自覚すると気味が悪かったが、待たずにはいられなかった。
声は毎晩ではなかった。三日続くこともあれば、一週間あくこともある。女の声、男の声、子どもの声。みな短く、用件だけを残して切れた。
「明日、そっち寄るね」
「駅に着いた」
「風邪ひいたから、今日は行けない」
「ごめん、出られなかった?」
どの声にも共通しているのは、相手が必ずそこにいるものとして話していることだった。不在を疑っていない声は、聞いていて妙に胸に堪えた。
私は録音を始めた。マイクを壁際に立て、二時十三分を待つ。理由ならいくらでも作れた。音の正体を知りたい。仕事の癖だ。だが本当は、あの短い声たちの続きを、私は勝手に想像し始めていた。かけた側はそのあとどうしたのか。返事のない呼びかけを、どこへ捨てたのか。
母が亡くなる前、私は最後の電話に出なかった。
特に深い理由はない。締切が近く、少し疲れていて、あとでかけ直そうと思った。そのまま忘れた。翌朝、見知らぬ番号から連絡が来た。母は夜のうちに倒れていた。最期に何を言おうとしたのか、私は知らないままだ。
だからかもしれない。隣室から聞こえる声は、私にはどれも、少しずつ母に似て聞こえた。
十一月の雨の夜、初めて私の名前が聞こえた。
カチッ、と作動音。少し長い無音。息を潜めた誰かが、こちらの様子をうかがっているようだった。
「修一」
私は椅子から立ち上がった。部屋の中で自分の名前はひどく裸に聞こえる。
「修一、あんた、また出ないの」
母の声だった。若い頃の、まだ喉の張りがあった頃の声ではなく、晩年の、咳を隠すように言葉を区切る声だった。
「たいしたことじゃないの。醤油、切れただけ。明日でいいのよ」
それから、小さく笑う息。
「でも、明日って便利だねえ」
テープが止まった。
私は壁を叩いた。拳が痛むほど叩いた。もちろん返事はない。翌朝、録音を確かめると、その声ははっきり入っていた。雑音も、部屋の反響も含めて、私の記憶にある母そのままだった。
その日の夕方、私は管理会社に合鍵を借りに行った。設備確認の名目でも何でもよかった。だが「四〇五は立ち入り禁止です」と断られた。言い方が少し強すぎて、かえって私は意地になった。
その夜、団地の外廊下から四〇五号室のベランダへ回った。古い仕切り板をまたぐだけだった。秋の風が強く、手すりは雨でぬめっていた。隣室の窓は施錠されていなかった。ほんの少し開けると、湿った畳と古紙の匂いが漏れた。
部屋は暗く、月明かりの形だけがあった。
家具はほとんどない。小さな卓袱台、潰れた座布団、壁際の電話台。その上に、黄ばんだ留守番電話が置かれていた。受話器のコードは根元から抜け、電話線も壁につながっていない。それなのに、赤いランプだけが弱く点滅していた。
電話台の下に、カセットテープが積まれていた。白いラベルに日付と部屋番号が書かれている。
四〇一、四〇三、四〇六。
私の指が止まった。四〇六と書かれたテープが何本もある。いちばん上の一本には、明日の日付が記されていた。
再生ボタンを押すと、すぐに私の声が流れた。
「もしもし、母さん? ああ、今ちょっと忙しくて」
私は言った覚えのない台詞を、たしかに自分の声で聞いた。
「あとでかけ直す。明日」
沈黙。続いて、受話器の向こうで誰かが小さく笑った。女の、年寄りの、喉の奥で乾いた笑いだ。
「みんな、そう言うのよ」
背後で、カチッ、と留守番電話が作動した。
私は振り返れなかった。部屋の暗がりで、受話器が持ち上がる気配があった。線のつながっていないはずの受話器が、誰かの手の高さまで、ゆっくりと。
耳のすぐ後ろで母の声がした。
「今度は出てね、修一」
逃げるように自室へ戻り、鍵もチェーンもかけ、明け方まで灯りを消せなかった。壁の向こうはしんとしていた。二時十三分も、とっくに過ぎていた。
もう聞くまいと決めたのに、翌晩、私の部屋の電話機が鳴った。
契約していない固定電話だ。入居時から置かれていた飾りのような黒電話で、回線はないと確認してある。けれどベルは確かに鳴り、止まり、留守番のランプが点いた。
再生すると、最初にノイズが走った。次に、聞き慣れた自分の息遣い。
「ただいま」
そこで声は少し震えた。
「鍵、開かない。修一、いるだろ」
私は受話器を落とした。ドアの向こうで、金属の擦れる音がした。細い鎖が、外から指でなぞられるような音。
「返事して」
母ではない。今の、確かに今の私の声だった。
廊下の向こうで、留守番電話の作動音がした。隣室ではなく、この部屋の、私のすぐそばで。ランプが赤く瞬き、まだ録音が続いていることを告げていた。
だから私は、とうとう知ってしまった。
あの部屋が集めていたのは死者の声ではない。返されなかった声だ。届かなかった呼びかけが行き場を失って、壁の薄い部屋から部屋へ、留守のままの人間を探して歩いている。
ドアノブがゆっくり回る。
私は息を潜めたまま、鳴り続ける発信音を聞いている。返事をすれば、たぶん終わる。返事をしなければ、たぶんもっと悪い形で残る。
けれど私は知っている。人は一度でも「明日」と言った声から、そう簡単には逃げられない。
外で、私がもう一度、低く呼んだ。
「修一」