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短編

二分遅れの待合室

廃止目前の小駅で、二分遅れたままの時計に残された誰かのやさしさを知った駅務補助員の小さな変化を描く短編。

Genre
現代文学
Series
単発
#地方線#駅#時間#待つこと#喪失

牧は、時刻を疑わないで生きてきた。

列車の発車時刻、勤務表の時刻、打刻機の赤い数字。きっちり合っているものだけが、自分を裏切らないと思っていた。だから、山あいの無人化予定駅を回って設備台帳を更新する今の仕事は、性に合っていた。狂った時計は狂った時計として印をつければいい。壊れたベンチは撤去、剥げた白線は再塗装。判断はたいてい、迷うほど複雑ではない。

小金井沢駅の待合室に入ったときも、最初に目についたのは丸時計だった。

午後三時十二分。スマートフォンを見ると、三時十四分だった。

牧は反射的に台帳へ書いた。

〈待合室壁掛け時計 二分遅れ 要交換〉

待合室はストーブのない冬の匂いがした。古い木のベンチ、曇った掲示板、片隅に置かれた観葉植物の鉢は、ずっと前に水をもらえなくなったらしく、土だけが白っぽく乾いている。駅そのものが、誰かに忘れられたまま、かろうじて形を保っているようだった。

「それ、急がなくてもいいですよ」

声がして振り返ると、ほうきを持った老女が立っていた。灰色の帽子をかぶり、紺のコートの袖口がすこし擦り切れている。いつからそこにいたのかわからないほど、音のしない立ち方だった。

「時計ですか」
「ええ。交換対象です」
「二分くらいなら、困る人ももういません」

老女は笑いもせずにそう言い、ベンチの端に落ちていた枯葉を拾った。

「来月にはここ、案内板も新しくなるんでしょう」
「予定では」
「じゃあ、それまではそのままで」

頼んでいるのか、独り言なのか判然としなかった。牧は台帳を閉じ、形式的にうなずいた。利用者の希望で設備の不具合を放置することはできない。けれど、この駅の利用者は一日十人もいない。上に報告して部品手配して、次の巡回日に取り替えるまでの手間を考えると、今日この場で言い争うことでもなかった。

その日はホームの照明、時刻表ケース、非常通報器まで確認して引き上げた。帰りの列車が来るまで、待合室で五分あった。老女はほうきを壁に立てかけ、時計の下のベンチに座っていた。牧は立ったまま発車案内を見ていたが、ふいに気づいた。老女は時計を見ていない。ただ、時計の下の空間を見ていた。二分遅れた円の真下に、何か透明なものがまだ吊られているように。

翌週、牧が再び小金井沢駅へ来ると、老女はまたいた。今度は雑巾で窓枠を拭いていた。駅員のいない駅で、誰に頼まれたでもない掃除をする人は珍しくない。花壇に水をやる人、落書きを消す人、勝手にベンチへ座布団を置いていく人。路線の古い駅ほど、そういう小さな私物化でかろうじて守られている。

「毎週来られるんですか」
牧が訊くと、老女は窓ガラスに映る自分の手元を見たまま答えた。
「木曜だけ。昔から、木曜はここに来ることにしてるんです」
「電車に乗るためじゃなく?」
「今は、乗らないことのほうが多いですね」

待合室の隅に、鍵のかかった古い戸棚があった。設備票によれば備品保管庫だ。牧は管理用の鍵束から番号の合うものを探して開けた。中には予備の蛍光灯、黄ばんだ落とし物台帳、駅名のゴム印、それから何冊かの大学ノートが積んであった。表紙に「小金井沢駅 引継」とある。

牧は一冊をめくった。前任の駅長や助役が残した、申し送りのようなものだった。除雪の手順、近所の商店の連絡先、野良猫に餌をやらないこと。古いページの端は湿気で波打っていた。

ぱらぱらと進んで、牧の指が止まった。

〈待合室時計、また二分遅れる。田代さんが夕方列車に間に合わんと言う。電池替えても同じ。どうせ古いからと、しばらく様子を見る〉

次のページ。

〈時計、直せるが直さぬことにした。文句は私が受ける。二分くらいの猶予があって困る駅でもない〉

さらに次の年の春。

〈田代さん、車内で嫁さんにする人ができたらしい。待合室の時計のおかげと勝手に言うので、笑う〉

牧は顔を上げた。窓拭きを終えた老女が、いつのまにかすぐそばに立っていた。

「見つけましたか」
「田代さんって」
「うちの人です」

老女――光江は、そう言って戸棚の扉をそっと押さえた。

夫は豆腐屋の配達をしていた。若いころはいつもぎりぎりで、夕方の上り列車に乗り遅れてばかりいた。光江は町の洋品店で働いていて、木曜だけ早番だった。帰りの列車が同じになれば話すこともあるのに、夫はたいていホームへ駆け込んだところで発車ベルに負けた。

「駅長さんがね、ある日、あの時計を二分だけ遅らせたんです」
光江は丸時計を見上げた。
「うちの人、ようやく間に合って。得した顔して電車に乗ってきて。自分が早く来たんだって本気で思ってた」
「それで」
「それで、何週かそういう日が続いて。私は笑うのを我慢してたんですけど、そのうち話すようになって、秋に結婚しました」

大げさな話でしょう、と光江は言った。けれど、その言い方は少しも自慢めいていなかった。誰かに何度も語ってすり減った思い出ではなく、自分の中で丁寧に包んでいたものを、必要な分だけ開いて見せたような口ぶりだった。

「駅長さんは亡くなって、夫も六年前に亡くなって。時計だけがそのまま」
「じゃあ、木曜に来るのは」
「市場の日なんです。昔、夫がその帰りにここへ駆けてきたから。私もつい、来てしまう」

牧は台帳を見た。要交換、という自分の字が、急に事務的すぎるものに見えた。もちろん時計は公共物で、運行に関わる表示は正確でなければならない。けれど小金井沢駅の正式な時刻は、もうホームのデジタル表示器にしか使われていない。この待合室の古時計は、いつからか実用品というより、そこに置かれた時間のようなものだったのかもしれない。

月末、デジタル案内板の更新日が来た。工事業者がホームの機器を入れ替え、古い掲示を剥がしていく。待合室の時計も撤去対象一覧に入っていた。牧は脚立にのぼった作業員に声をかけた。

「それ、ホームじゃなくて待合室の参考備品扱いに変更できますか」
「動いてます?」
「少し遅れます」
「じゃあ公的な時計はまずいですね」
「非運行設備の表示をつけます。時刻案内には使いません」

作業員は肩をすくめた。
「責任持てるなら」

責任、という言葉に、牧は少しだけ笑いそうになった。二分遅れた時計ひとつに責任も何もない気もしたし、逆にこういう小さなものにしか引き受けられない責任もある気がした。

その日の夕方、光江はいつものようにやって来た。新しい案内板が青白く光る待合室で、古い丸時計は壁に残され、その下に小さな札が下がっていた。

〈参考保存設備 現在時刻の案内には使用していません〉

光江は札を読み、しばらく黙っていた。

「正直ですね」
「会社の言い方です」
「でも、残してくれた」

牧はうなずいた。光江はベンチに座り、少し右へずれた。そこが、昔、夫の座った場所なのかもしれなかった。

発車まで二分あった。牧は立ったままでも乗れたが、今日は座った。ベンチは古く、体重をかけると低く軋んだ。窓の外で、陽の落ちた線路が鈍く光っている。

「遅れてると、落ち着かないでしょう」
光江が言った。
「前は、そうでした」
「前は」
「何でもぴったりしていないと駄目だと思ってました」
「今は」
「二分くらいなら、部屋みたいなものかもしれません」

光江は声を立てずに笑った。列車の接近音が遠くからふくらんでくる。待合室の時計は、相変わらず少しだけ世界に追いつかないまま、静かに針を進めていた。

その二分のあいだに、窓の桟のほこりが夕闇に沈み、誰かの靴音がホームにひとつ響き、言わなくてもよいことが言わないままで済んだ。牧は初めて、その小さな遅れを不具合ではなく余白だと思った。

列車が入ってきても、二人はすぐには立たなかった。

正しい時刻は外で光っている。けれど待合室の中では、もうしばらく、やさしく遅れたままでよかった。