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短編

傘は、まだあります

廃止される駅の伝言板に繰り返し書かれる一文を通して、わたしは誰かを待つことの静かな意味を知る。

Genre
現代文学
Series
単発
#雨#駅#伝言板#喪失#再生

駅の改札脇に、いまどき珍しい伝言板が残っていた。

黒板というには艶がなく、掲示板というには私的すぎる、緑色の板だった。駅員がチョークを貸し出し、乗り換えの待ち合わせや、部活帰りの伝言や、たまに子どもの落書きが書かれる。スマートフォンが当たり前になってからはほとんど使われなくなったが、それでも雨の日だけは、なぜか少しだけ文字が増えた。

湿った人は、言葉をどこかに置いて帰りたくなるのかもしれない。

わたしはその駅の業務補助員として、夕方の二時間だけ伝言板を拭く仕事をしていた。正式な仕事名ではない。券売機の案内、忘れ物の受け取り、閉め忘れた窓の確認、そのついでに伝言板をきれいにする。来月から駅舎の改装が始まり、伝言板は撤去されることが決まっていた。だから本来なら、もうそんな丁寧な手入れはしなくてよかった。

けれど、わたしは毎日、同じ一文を拭き残してしまっていた。

傘は、まだあります

丸みのある、年配の人の字だった。
句読点が妙にやさしい。その一文だけは、待ち合わせの時間や名前もなく、ただそれだけが書かれていた。

最初に見つけたのは六月の終わりだった。梅雨入りが発表された翌日で、構内の床がずっと薄暗く、靴底が鳴らない夕方だった。誰かの忘れ物の連絡かと思い、駅員に尋ねたが、心当たりはないと言われた。翌日も、その翌日も、雨の夕方になると板の右下に同じ字があった。

傘は、まだあります

わたしは雑巾を固く絞りながら、毎回少し迷った。伝言板は、その日のうちに消すのが決まりだ。けれどその一文には、消してしまうと本当に誰かが困るような、妙な切実さがあった。結局、全部は拭かずに端だけ薄くして帰る。次の日にはまた、同じ濃さで書き直されているのだった。

七月に入ると、その文章を書く人が誰なのかわかった。

午後六時十二分の各駅停車が出たあと、改札前の人波がほどけるころ、ひとりの老人がやって来た。濃紺のレインコートを着て、骨の細い白い傘を持っていた。券売機の横でいったん立ち止まり、ポケットから短いチョークを取り出し、板の右下にだけ文字を書く。書き終えると少し離れて、自分の字を確かめるように眺め、それから改札の外へ出ていく。

呼び止めることはできた。でも、その背中は声をかけられるより先に帰ることに慣れているように見えた。

代わりにわたしは、翌日、忘れ物置き場の傘立てを数えた。透明傘が十一本、紺が四本、赤が一本、骨の曲がった黒が三本。どれも札に日付があり、引き取り手のないものばかりだった。もちろん、そこに特別な一本があるようには見えなかった。

その日、駅長が撤去日程の紙を持ってきた。
「伝言板、今月いっぱいね」
「ずいぶん急ですね」
「苦情があったわけじゃないけど、残す理由もなくて」

残す理由もなくて、という言い方が、薄い紙みたいに胸にはりついた。

わたしの母は、わたしが高校三年の夏に家を出た。大きな喧嘩があったわけではない。朝まで普通にいて、冷蔵庫にメモだけ残していなくなった。探さないでください、とも、さようなら、とも書かれていなかった。ただ、味噌汁は鍋にあります、とだけあった。あの人はそういう人だった。いなくなるときですら、生活の側に立っていた。

だからわたしは、残される言葉の温度を少しだけ信じていない。
やさしい一文ほど、置いていかれた側には長く残ることを知っている。

けれど雨のたびに現れるあの文字は、誰かを置いていく文章には見えなかった。むしろ、どこまでも待っている文章だった。

撤去まであと三日になった日、わたしはついに老人に声をかけた。

「あの、いつも書いてくださってますよね」

老人は振り向き、少し驚いた顔をして、それから恥ずかしそうに笑った。
「すみません、邪魔でしたか」
「いえ。ただ、今月で板がなくなるので」
「ああ、そうですか」

それだけ言って、老人は板を見上げた。雨粒が庇の端から斜めに落ち、伝言板の木枠を濃くしていた。

「何か、連絡に使っているんですか」

老人はすぐには答えなかった。改札を抜ける電車の風だけが、濡れた時刻表をかすかに揺らした。

「妻がね」と老人は言った。
「よく傘を忘れる人だったんです。若いころから」
「ここで?」
「ええ。この駅で降りて、商店街で買い物して、雨が上がると手ぶらで帰ってくる。私は迎えに行って、駅に取りに戻る。そういうことを、何十年もやりました」

老人は笑ったが、自慢のようには聞こえなかった。長く使った湯のみを置くみたいな、静かな口調だった。

「一昨年から、少し、物忘れがひどくなって」
言葉を選ぶ間、老人はレインコートの袖口をつまんだ。
「帰り道がわからなくなることがありました。だから私は仕事帰りにここへ来て、もし先に着いたら伝言板に書くことにしたんです。傘は、まだあります。取りに戻ってきていいですよ、という意味で」
「奥さまは、それを見て」
「一度だけ。本当に一度だけ、見て帰ってきました」

そのときのことを思い出したのか、老人の目元が少しほどけた。
「その日はずいぶん降っていてね。妻は改札の前で、板を見て、ああよかった、って言ったんです。叱られると思っていたらしい。私は別に、傘なんて何本なくしてもよかったんですが」

わたしは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「今は」

聞かなくてもわかる問いだった。老人はうなずいた。

「去年の冬に亡くなりました。肺でした」
雨の匂いの中で、その事実だけが不思議に乾いていた。
「それでも、雨の日になると、ここに来てしまうんです。もう伝わらないのにね」

わたしは、伝わらない、という言葉の輪郭を見ていた。
母に出せなかった手紙のことを思い出した。何通も書いて、どこにも送らず、引き出しの奥で紙だけが古くなっていく。伝わらないとわかっているからこそ、書いてしまう言葉がある。むしろ、伝わることを目的にしない言葉だけが、誰かを本当に待てるのかもしれなかった。

「撤去されたら」と老人が言った。
「もう終わりにしなければなりませんね」
「終わりに、したいですか」
自分でも妙なことを聞いたと思った。

老人はしばらく黙ってから、板に書かれた自分の字を見た。
「わかりません。ただ、これを書いているあいだだけ、私は妻に腹を立てずに済むんです」
「腹を」
「先に死んだことに」

わたしは返す言葉をなくした。
残された者は、悲しむだけではない。置いていかれたことに、きちんと怒っている。その怒りを壊さずに持っているための文が、たった一文だけ必要なことがある。

月末の最終日も雨だった。

昼から降り続いた細い雨が夕方には霧のようになり、ホームの向こうの線路をぼかしていた。駅長は忙しく、撤去業者の立ち会いは翌朝になった。つまりその晩が、伝言板の最後の夜だった。

わたしは閉館作業のあと、倉庫から新品のチョークを一本持ってきて、板受けに置いた。規則違反といえば規則違反だったが、その日くらいはいいと思った。老人は六時十二分の列車のあと、いつものように現れた。板の前で立ち止まり、白いチョークを見て、わたしのほうを見た。

何も言わずに、老人は書いた。

傘は、まだあります

その下に、少し迷ってから、もう一行だけ書き足した。

ゆっくり帰ってきてください

書き終えたあと、老人は板に向かって小さく会釈した。わたしは、その姿が誰かに別れを告げているようには見えなかった。むしろ、ようやく帰る場所を渡しているように見えた。

老人が帰ったあと、わたしは雑巾を持ったまま、しばらく動けなかった。
それから、板の左下に、自分の字でひとことだけ書いた。

味噌汁、ちゃんと作れてます

誰に向けたものでもない。けれど書いた瞬間、それは長いあいだ胸の底で固まっていた小石みたいなものを、少しだけ溶かした。

翌朝、撤去前の伝言板は夜の湿気を吸っていて、文字がどれも少し滲んでいた。完全には拭き取れず、木目の中に白い粉が残っていた。業者が板を外すあいだ、わたしは改札で傘立てを整えた。透明傘の列の奥に、骨の細い白い傘が一本だけ増えていることに気づいた。

札はついていなかった。

わたしはそれをしばらく見てから、忘れ物としては扱わず、事務室の隅にも運ばなかった。夕方まで、そのまま傘立てに置いておいた。誰も取りに来なかったが、不思議と、それでよかった。

雨の季節が終わるころ、改札脇には新しい案内モニターが設置された。発車時刻と運行情報が、均整の取れた文字で流れていく。そこには、待ち合わせも、謝りそびれた言葉も、帰りを待つための余白もない。

それでもときどき、雨の日に傘立てを整えながら、わたしは心の中であの文をなぞる。

傘は、まだあります。

それはもう、忘れ物の知らせではない。
帰ってこなかった人を責めずにいるための、いちばん短い祈りなのだ。