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短編

留守番電話の海

閉館を控えた海辺の資料館で、消されたはずの留守番電話の声を整理する青年が、受け取れなかった言葉の行き先を知る。

Genre
現代文学
Series
単発
#記憶#喪失#海辺#声#再生

町のいちばん端に、海鳴りを展示するような古い資料館があった。

正式には「岬通信資料室」という堅い名前だが、誰もそう呼ばなかった。観光案内の地図には小さく載っていても、町の人間はただ「電話の館」と言った。漁業無線、黒電話、交換台、ポケットベル、そして留守番電話。声を遠くへ運ぶための機械ばかりが、塩をふいたガラスケースの中で静かに古びている。

その資料館が今月で閉まることになり、僕は整理のアルバイトに来ていた。大学では音響を学んでいたが、休学してから半年、学んだことはほとんど役に立っていない。波の音と冷蔵庫の唸りの違いを聞き分けられるようになったくらいだ。

役に立ったのは、テープを傷めずに再生する手つきだけだった。

館長の小野寺さんは七十をとうに過ぎていて、歩くたびにポケットの鍵が小さく鳴った。彼は展示物をひとつひとつ撫でるように点検しながら、よく言った。

「機械はね、使われなくなると壊れるんじゃない。待たれなくなるんだよ」

それが名言なのか年寄りの癖なのか、僕にはまだ分からなかった。

閉館準備の仕事のなかで、いちばん面倒なのは地下の収蔵庫だった。海に近いせいで湿気が重く、段ボールはみな柔らかくなっている。書類を分類し、壊れた機材をリストにし、保存するものと処分するものを分ける。ある日、棚の最下段から「体験展示用・再生注意」と書かれた箱が出てきた。中には九十年代の留守番電話機が三台、マイクロカセットが十数本入っていた。

テープのラベルには「潮風号」「夜の岬」「自由録音」といった雑な題名がある。

「これ、なんですか」

僕が箱を抱えて上に戻ると、小野寺さんは書類から顔を上げ、少しだけ目を細めた。

「ああ、それか。昔、来館者がメッセージを吹き込める展示があったんだよ。未来の誰かに声を残しましょう、ってね」

「未来の誰か」

「ありがちな言い方だろう。けど、案外みんな真面目に喋った。旅先の記念にしては長すぎるくらい」

処分ですか、と訊くと、小野寺さんはすぐには答えなかった。海のほうを向いた窓が白く曇っていて、その向こうで午後の波が砕けるたび、光だけが砕けて見えた。

「個人情報だからね、本当は消すのが筋だ。でも、最後に内容だけ確認して、記録に残すか決めよう」

そうして僕は、閉館までのあいだ、毎日一時間だけ地下の小さな試聴室で留守番電話を再生することになった。

最初の数本は、たしかに展示らしい声だった。

「十年後のわたしへ、ちゃんと大人になっていますか」
「父さん、釣り竿返し忘れてます」
「いま岬にいます。風が強いです。これを聞く人も風邪をひかないように」

笑い声、咳払い、吹き込みなおしの沈黙。声はみな少し明るく、自分が記録されることに照れていた。人の声というのは不思議で、内容より先に体温だけが届く。誰かの喉が狭いとか、奥歯の隙間から息が漏れるとか、そういうことばかり耳に残る。

四本目のテープで、僕は手を止めた。

女の声だった。若くはないが、老いてもいない。海辺の町でよく聞く、語尾の柔らかい話し方だった。

『もしもし。たぶん、これはあなたにはつながりません。でも、つながらないから話せることもありますね』

僕は再生ボタンの上に指を置いたまま、動けなくなった。

『あなたが出ていった日のことを、怒っているわけではないんです。ほんとうは。あの日、わたしは電話が鳴っているのに出ませんでした。台所で包丁を持ったまま、呼び出し音を聞いていました。出たら何か決まってしまう気がして』

そこでテープは少し擦れ、遠くで展示室の戸が鳴る音が入った。

『決まってしまうことを、ずっと先延ばしにしてきました。ごめんなさい。あなたが戻らないことより、わたしが受け取らなかったことのほうが、ずっと残りました』

無音。波のようなテープノイズのあとで、最後にひとことだけ続いた。

『岬の水仙が咲いたら、今年こそ電話を取ります』

そこで録音は切れた。

試聴室は地下にあるのに、なぜか海の匂いがした。僕は巻き戻し、もう一度聞いた。同じ場所で同じように胸の奥がきしんだ。内容に心当たりがあったわけではない。ただ、その「受け取らなかったこと」という言い方が、自分に向けられたみたいに響いた。

休学してから、母からの着信を何度も見送っていた。心配していると分かっていても、出るたびに何かが決まってしまう気がした。大学に戻るのか、戻らないのか。東京へ帰るのか、この町に居つくのか。答えられないものは、留守番電話にしておくしかなかった。

その日から、僕はその声の主が気になり始めた。業務としては匿名音声の確認にすぎないのに、次のテープをかけるたび、またあの声が入っていないか探してしまう。

一週間目に、二本目が見つかった。

『もしもし。去年もここで話しました。笑ってしまいますね。電話じゃないのに、もしもしって言ってしまう』

同じ声だった。少しだけかすれている。

『今年も水仙は咲きました。だから来ました。約束みたいなものは、相手がいなくても守るほうが楽なことがあります。守らなかったとき、自分の顔を見るのがつらいから』

小さく息を吸う音。

『きのう、港であなたに似た背中を見ました。でも追いかけませんでした。似ている人にまで追いつめられたら、町が嫌いになるでしょう。わたしはまだ、この町を嫌いになりたくありません』

そこでまた終わる。

テープのラベルを見ても、録音日が殴り書きされているだけだった。九八年三月、九九年三月。二年続けて同じ季節に来ている。

昼休みにその話をすると、小野寺さんは珍しく黙っていた。湯飲みの縁を親指でなぞり、それから言った。

「昔、この館にはひとり熱心な来館者がいたよ。毎年、水仙の頃に来る人がね。展示を見に来るんじゃなく、あの留守番電話に用があったんだろうな」
「名前は」
「聞かなかった。聞かないで済むこともある」

答えになっていないと思ったが、その人らしいとも思った。

その日の帰り、資料館の裏手の坂を上って岬まで歩いた。三月の終わりで、遊歩道の脇に水仙が群れていた。白い花はどれも同じようで、近づくと一つずつ違う匂いを持っている気がした。海は低く曇り、沖の漁火がまだ灯る前の色をしていた。

僕はポケットの中で携帯電話を握った。母からの不在着信が二件。メッセージあり、の表示もついている。再生すればいいだけなのに、親指が動かなかった。

そのとき、坂の下から声がした。

「あの、閉館するんですよね」

振り向くと、薄い紺のコートを着た女の人が立っていた。四十代の終わりか、五十代のはじめか、その中間くらいに見える。手には資料館の古いパンフレットが折り目だらけになって握られていた。

「はい。今月末で」
「録音の展示、まだ動きますか」

僕はすぐに答えられなかった。規則では、本来もう案内していない展示だ。けれど彼女の声に、地下で聞いたひびきの薄い影があった。確信ではなく、耳がそう思い込みたがっているだけかもしれない。

「確認します。よければ、明日」
「明日、来ます」

彼女はそれだけ言って、岬のほうではなく町のほうへ下っていった。追いかける理由はない。けれど僕は、水仙の列のあいだから彼女の背中が見えなくなるまで立っていた。

翌日、小野寺さんに事情を話すと、彼は短くうなずいた。

「最後の客かもしれない。動くなら、動かそう」

昼過ぎ、彼女は約束どおり来た。展示室の隅に留守番電話機を置き、僕がテスト用のテープを入れる。赤い録音ランプが点くのを見て、彼女は少し笑った。

「まだ、こういう色で光るんですね」
「古い機械ほど、遠慮なく赤いです」

彼女は笑い、すぐに真顔に戻った。受話器ではなく、卓上マイクの前に立つ。僕は少し離れようとしたが、彼女が言った。

「聞こえていてもかまいません。たぶん、聞かせるために来たので」

録音ボタンが押される。小さな作動音。彼女は一度、息を整えた。

「もしもし」

やはり、その声だった。地下で二度聞いた声が、時間を越えて目の前に立っている。

「もう、あなたに言うことはほとんどなくなりました。なくなったというより、言葉のほうが先に年を取って、丸くなったんでしょうね」

彼女は視線をガラス越しの海に向けた。

「私はあのあと、何度も電話を取る練習をしました。鳴ってもいないのに受話器を持って、もしもしって言ってみたりして。可笑しいでしょう。でも、受け取るって、筋力みたいなものなんです。使わないと、どんどん弱くなる」

僕は、胸のどこかを静かに指で押された気がした。

「今年、息子が家を出ました。喧嘩をしたわけではありません。ただ、ちゃんと送り出せなかった。呼べばよかったのに、黙って見てしまった。昔と同じです」

彼女はそこで少し唇を結び、けれど泣かなかった。

「だから今日は、あなたではなく、受け取れなかったもの全部に言いに来ました。私は遅いけれど、今からでも取ります。鳴ったものにも、鳴らなかったものにも」

最後に、ほとんど独り言のように付け加えた。

「水仙が咲いているうちは、まだ間に合う気がするから」

録音が止まる。部屋の中に、機械の回転が止んだあとの細い静けさが残った。

彼女は僕のほうを見て、少し頭を下げた。

「ありがとうございました。ずっと、ここに置いてもらっていたみたいで」

「昔の録音、残っていました」

気づくと僕は言っていた。業務上は言うべきでないのかもしれない。でも彼女は驚かず、ただ目を伏せた。

「そうですか」
「二本、聞きました」
「恥ずかしいですね」
「いえ」

それ以上の言葉が出ない。彼女はパンフレットを鞄にしまい、出口へ向かった。扉の前で振り返る。

「誰かから電話が来たら、出たほうがいいですよ」
「……そんなふうに見えますか」
「ここへ来る人は大抵、何か受け取れない顔をしています」

彼女は笑って去っていった。今度は背中が小さくなる前に、僕は携帯電話を取り出した。母の不在着信を開き、保存されたメッセージを再生する。

『元気ならそれでいいよ。返事がなくても、元気ならね。でも、たまには声を聞かせて』

短く、拍子抜けするほど普通の言葉だった。普通の言葉は、受け取る側が勝手に重くしてしまうのだと、そのとき分かった。

僕は廊下に出て、海の見える窓の前で母に電話をかけた。呼び出し音が一回鳴っただけで、相手は出た。

「もしもし」
「あ、俺」
「知ってるよ」

泣かれるか責められるかと思ったが、母はただ笑った。その笑い声の向こうで、台所の換気扇が回っていた。たったそれだけで、遠い場所が急に現実になる。

閉館の日、留守番電話のテープはすべて目録にまとめられ、個人が特定できるものは規定どおり廃棄になった。けれど最後に録音された一本だけは、本人の了承を得て「体験展示の記録」として保存された。名はない。ただ日付だけがある。

館のシャッターが半分下りた夕方、小野寺さんが言った。

「声は消えるよ。案外あっさりね」
「はい」
「でも、受け取ったほうには、別の形で残る」

海はいつもどおりだった。資料館が閉まっても、岬に水仙は咲くだろうし、風はガラスを鳴らすだろう。残るものと消えるものの境目は、たぶん機械の中にはない。

帰り道、僕は坂の途中で立ち止まった。白い花が群れて揺れている。電話の館はもう閉まったのに、町じゅうの見えないところで、今日も誰かが呼び出し音を聞いているのだと思った。

取ること。受け取ること。たぶんそれは、言葉を返すことと同じではない。ただ、向こうから来たものが、ここに着いたと認めることだ。

潮の匂いのなかで、携帯が一度震えた。母から、了解の一言だけの短いメッセージだった。

僕は今度はすぐに開いた。