短編
海鳴りの返却口
海辺の図書館で毎年ひっそり返却される延滞本を追い、司書の美緒は父の不在に残されていた小さな約束を知る。
返却口の鉄蓋が落ちる音は、いつも貝殻の内側みたいに響く。
海沿いの町の図書館は古く、潮風に触れるものはみな、少しずつ白く乾いていった。窓の桟も、貸出カードの角も、閲覧机の木目も、長くここにいるうちに塩を含んだような顔になる。閉館前、美緒は返却口の箱を引き出し、今日返ってきた本を一冊ずつ受け止めるのが好きだった。手のひらに乗る重さだけで、その本がどれくらい読まれたか、なんとなくわかる気がするからだ。
その夜、一番下に、ひどく古い文庫があった。
布張りの表紙は角が丸くなり、背は日に焼けて題名が薄れている。濡れて乾いた跡が波の縞みたいに残っていた。返却処理のために開いた貸出票には、いまは使われていない手書きの利用者番号と、ひとつの名前があった。
柳瀬 航。
美緒はしばらく指を止めた。
父の名前だった。
父が海で死んだのは、美緒が十歳の春だ。漁に出たまま戻らなかったのではない。港に戻る途中、夜明け前の防波堤で足を滑らせた、と大人たちは言った。あまりにもあっけない説明で、子どもだった美緒には、父がいなくなった理由より、父の声が台所から消えたことのほうが現実だった。
この本が返ってくるのは、初めてではなかった。
美緒がこの図書館に勤め始めてから七年、毎年三月になると、古い延滞本が一冊だけ返却口に入っている。どれも借り手は父で、返却日は決まって雨か曇りの日の閉館間際。初めは気味が悪いと思った。次に、誰かのいたずらだと思った。三年目には、もう待っていた。
返ってきた本はみな詩集か随筆で、父の仕事場には似合わないものばかりだった。鉛筆で細く線が引かれている箇所があり、余白には小さな字で、たった一言だけ書き込みがある。
「この匂い、朝の網みたいだ」
「遠くへ行くんじゃなく、戻れなくなるだけだ」
「声は残る」
美緒はそれを読むたび、知らない父に会う気がした。家にいた父は寡黙で、テレビの天気図ばかり見ていた。なのに本の中の父は、うまく言えないことを、借りた言葉のそばにようやく置いていた。
今年返ってきた一冊は、七冊目だった。おそらく最後だ、と美緒は思った。詩集の最後のページに、今までなかった封筒が挟まっていたからだ。図書館の廃棄印を押した古い封筒に、丸い癖のある字で「司書さんへ」と書いてある。
閉館のベルを止め、カウンターの灯りをひとつだけ残して、美緒は封を切った。
便箋は潮を吸って柔らかくなっていた。
「いつも延滞をすみません。
柳瀬と一緒に船に乗っていた柴田と申します。倉庫をたたむとき、道具箱の底から本が出てきました。まとめて返そうと思いましたが、あいつが貸出票の裏に小さく日付を書いていて、三月に返す気だったのだろうと思い、一冊ずつ返しました。
迷惑なら今年で終わりにします。最後の一冊なので、もう返しには来ません。
線や書き込みは柳瀬のものです。港の休憩小屋で、よく読んでいました。似合わないでしょうが、好きだったようです。
延滞金があれば、魚市場の西の端の柴田まで」
読み終えても、美緒はしばらく顔を上げられなかった。
父が本を読んでいたことも、その本を返しそびれたまま死んだことも、そのあと誰かが七年かけて返していたことも、どれも大きな秘密ではない。けれど秘密でないことほど、人は長く言いそびれる。誰も悪くないまま、いつまでも手渡されないものがある。
美緒は詩集を閉じ、窓の外を見た。夜の海は見えない。ただ、見えないものほど確かに音を立てる。波の音が、図書館の壁の向こうで呼吸していた。
翌朝、美緒は出勤前に魚市場へ寄った。西の端は観光客の来ない古い売り場で、濡れた床に鱗が光っていた。発泡スチロールの箱を積んだ奥に、小柄な老人がひとり、包丁を研いでいた。
「柴田さんですか」
老人は顔を上げ、美緒の名札を見るように目を細めた。まだ制服も着ていないのに、どうしてわかったのだろうと思ったが、たぶん美緒の顔そのものに、昨夜読んだ父の名前が残っていた。
「延滞金、取りに来たわけじゃありません」
そう言うと、柴田は肩を落としたように笑った。
「ならよかった。金は用意してない」
「代わりに、渡したいものがあります」
美緒は鞄から新しい図書館利用カードの申込書を出した。昨夜、閉館後に一枚持ち帰って書式を確かめ、今朝あらためて空欄のまま持ってきたのだ。
柴田は申込書と美緒を見比べた。
「わしはあまり読まんよ」
「父も、そう見えたんだと思います」
老人の口元が、波に削られた石みたいにゆっくり崩れた。
「航はな、字を読むときだけ、急に黙るんじゃなくて、静かになる男だった」
美緒は、その違いを初めて知った気がした。黙ることは閉じることで、静かになることは、なにかに耳を澄ますことなのだ。
市場の向こうで、朝の競りが始まる声がした。空は明るいのに、海から来る風はまだ冷たい。美緒は申込書を柴田に差し出したまま、言った。
「今度は、返すためじゃなく、借りるために来てください」
柴田は少し迷い、それから濡れた手を前掛けで拭いて、申込書を受け取った。
「やさしい本がいい」
「あります」
美緒は答えた。
図書館へ戻ると、返却済みの父の本を、書庫の奥にしまう代わりに、修理台の上へ並べた。背表紙はどれも傷んでいたが、捨てるほどではない。直せば、もう一度棚に戻せる。
糊を薄く引き、破れたページを重ねる。紙を撫でる指先に、潮の匂いがかすかに残る。父のものなのか、柴田のものなのか、海そのもののものなのかはわからない。ただ、それはもう失くした匂いではなかった。
昼前、玄関の自動ドアが開いた。
見ると、帽子を取り、居心地悪そうに立つ柴田の手に、申込書と、昨日の詩集があった。
「これ、借りられるか」
美緒はうなずいた。貸出処理の機械に本を通すと、ぴ、と乾いた音がした。その小さな音は、返却口の鉄蓋の響きとは違う。終わりの音ではなく、続いていくための音だった。