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短編

消印のない返事

閉店する文具店で見つかった返事の束が、言えなかった一言を町に呼び戻す。

Genre
現代文学
Series
単発
#手紙#文具店#商店街#再会#余白

母の文具店を畳むことになって、私は三月の終わりをほとんど店の奥で過ごしていた。

商店街の古いアーケードは、雨が降るたびに少しだけ明るくなる。天井の半透明の波板に当たった雨粒が白くにじみ、その光が店先のガラス瓶や万年筆の箱に反射して、もう売り物ではないものまで新品みたいに見せた。

栞堂は、紙を売る店だった。便箋、封筒、大学ノート、祝儀袋、色鉛筆。母は商品名より、紙の手ざわりの話をする人だった。

「これ、謝るときに向いてるよ」
「こっちは、久しぶりの人に使うと角が立たない」

そんなふうに言いながら、客に紙を選んでいた。

私はそういう母を少し恥ずかしく思っていたし、少し誇らしくも思っていた。

葬儀が終わって、四十九日が過ぎ、ようやく片づけに手をつけたころ、レジ台のいちばん下の引き出しの奥から、丸いクッキー缶が出てきた。青い花の描かれた、ごくありふれた缶だった。中には、封のされた手紙が何十通も輪ゴムで束ねられていた。どれにも切手が貼られていない。

宛名だけが書かれたもの。
差出人だけ書かれたもの。
何も書かれていない白い封筒まである。

いちばん上に、小さなメモが一枚のっていた。

「出せなかった返事。急がせないこと」

母の字だった。

思い出してみれば、店の窓際にはいつも小さな机が置いてあった。試し書き用の机、と母は言っていたけれど、客はそこでよく手紙を書いていた。万年筆のインクを試しながら、暑中見舞いを書き、詫び状を書き、退職祝いの一筆箋を書いた。母はそれを見ても見ないふりをした。書き終えた人が封をして鞄にしまえばそれでよく、時々、どうしても持ち帰れない手紙だけが、母に預けられたのだろう。

私は缶を閉じた。

預かりものだとしても、店は明け渡しが決まっている。明後日には内装業者が入る。いつまでも置いておけない。けれど捨てることには、妙な抵抗があった。手紙そのものより、母がそれを捨てずにいた時間ごと処分するような気がしたからだ。

その日の夕方、私はシャッターの外に一枚の紙を貼った。

「栞堂でお預かりしていたお手紙があります。心当たりのある方は、三十一日午後五時までにお声がけください」

母なら、もっとましな文面にしただろうと思った。

翌日、思ったより何人か人が来た。

町内会の役員をしていた細い老人が、亡くなった奥さんに出せなかった礼状を受け取りに来た。菓子屋の女将は、嫁いだ娘に書きかけた封筒を見て「こんな字だったっけ」と笑った。誰も手紙の中身をその場では確かめず、みんな少し照れた顔で帰っていった。

五時が近づき、外のアーケードが夕方の鈍い銀色になったころ、ひとりの女性が店に入ってきた。

薄いベージュのコートに、濡れかけた髪。年は私と同じくらいか、少し上に見えた。戸口のところで一度立ち止まり、店内を見回してから、静かに言った。

「まだ、間に合いますか」

「たぶん。お名前、わかれば」

彼女は少し迷ってから、レジ台に近づいた。

「北原あかりです。十五年くらい前に、ここで手紙を書いたことがあります。妹に」

十五年という長さのせいで、私はすぐには返事ができなかった。十五年あれば、人は住所を変え、名字を変え、謝り方まで変えてしまう。

「妹さんのお名前は」

「海。北原海です」

缶の中の封筒は、母なりの規則で並べられていたらしく、裏にごく小さく鉛筆で日付や印がついていた。私は「き」「う」の付箋が入った束を取り出し、彼女と並んで探した。

「これ、かもしれません」

青いインクで、少し右上がりの字だった。表には「北原海さま」とだけあり、差出人欄は空白だった。封の糊が少し浮いて、端が柔らかくなっている。

彼女はそれを両手で受け取り、しばらく見ていた。

「若い字だ」

「今と違いますか」

「今のほうが、もっとごまかします」

そう言って、彼女は笑った。笑ったあとで、その笑みがすぐほどけた。

「妹は、ケーキ屋になりたいって言ってたんです。高校を出たら町を出るって。私は反対して、反対というか、馬鹿にしたんです。どうせすぐ帰ってくるって。母が亡くなったばかりで、私ひとりで店を手伝っていて、たぶん羨ましかったんだと思います。自分は出ていけないのに、この子は出ていけるって」

彼女はそこで言葉を切った。店の奥の時計が、小さく一回鳴った。

「その夜、ここで手紙を書きました。謝ろうと思って。でも、謝るって、口に出すより難しいですね。封をして、それで終わった気がしてしまって、結局出さなかった」

「それからは」

「会ってません」

雨の音が少し強くなった。アーケードの向こうで、自転車のベルが一度鳴った。

私は何か言うべきだったのかもしれない。でも、母の店で覚えたことがひとつだけある。手紙の前では、だいたい余計なことを言わないほうがいい。

彼女は封筒を開けなかった。そのまま机の上に置き、窓際の試し書き机のほうを見た。長年日焼けした天板には、インクの輪じみがいくつも重なっている。

「まだ、使えますか」

「ええ。たぶん、いちばんちゃんと使えます」

彼女は机に座った。私は黙って引き出しから便箋を出し、いちばん癖のない黒の万年筆を置いた。ペン先を紙に当てる前、彼女は古い封筒を一度だけ開き、中を読んだ。

読んでいる横顔は、驚くほど静かだった。泣くでもなく、笑うでもなく、十五年前の自分が書いた言葉を、他人の手紙みたいに見つめていた。

「ひどいなあ」

やがて彼女はそう言った。

「謝ってるつもりで、半分、言い訳してる」

「若いからですか」

「若いから、というより、間に合うと思ってたからかもしれません」

彼女は古い手紙をたたみ直し、新しい便箋に向かった。

今度はほとんど迷わなかった。ペン先が紙を走る音だけが、店の中を細く満たした。私は離れた棚で大学ノートを束ね直すふりをしていたが、何も耳に入らなかった。ただ、書く人の背中というのは、どうしてあんなに正直なのだろうと思っていた。

書き終えると、彼女は便箋を折り、封筒に入れた。宛名も、差出人も、今度はきちんと書いた。少しだけ丸く、少しだけ遅くなった字だった。

「切手、ありますか」

「一枚だけ」

レジの小銭入れの裏に、紫陽花の記念切手が残っていた。最後の一枚だった。

彼女は受け取って、それを封筒の右上に貼った。貼り終えたあと、ふっと息をついて、古いほうの手紙を私に見せた。

「これは、どうしたらいいと思いますか」

私はすぐに答えられなかった。

捨ててもいいし、持ち帰ってもいい。そういう正しい答えは、たぶんどちらでもよかった。

「残しても、いいんじゃないですか」と私は言った。「出さなかったほうも、あなたが書いた返事なんでしょう」

彼女は少しだけ目を見開いて、それから頷いた。

「お母さんも、そう思ってたのかな」

「たぶん。母は、返事は遅れても返事だって言ってました」

それを口にしたとたん、私は初めて、その言葉を母からちゃんと受け取った気がした。昔から何度も聞いていたはずなのに、今になってやっと意味が追いついてきた。

店を出るとき、彼女は赤いポストの前で一度立ち止まり、切手の貼られた新しい封筒を投函した。乾いた金属音が、雨の中で小さく響いた。

振り向いた彼女は、来たときより少しだけ若く見えた。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

「返事って、遅くなるほど、出す場所がなくなると思ってました」

彼女はシャッターの張り紙を見上げ、それから店の窓を見た。

「でも、残ってることもあるんですね」

彼女が帰ったあと、私は缶の中を確かめた。引き取り手のなかった封筒が、まだ七通残っていた。宛先不明のもの、差出人のないもの、どこへも行けなかったものたちだ。

私はそれらを机の上に並べ、しばらく眺めた。捨てる気にはやはりなれなかった。

夜になって、店じまいの前に、私は母の使っていた便箋を一枚取り出した。書く相手は決まっていた。

お母さんへ。

そう書いて、少し笑ってしまった。いちばん返事の届かない相手だと思ったからだ。けれど、届くかどうかと、書くかどうかは、案外べつの話なのだと、今日の私は知っていた。

店のことはまだ全部片づいていないこと。
机だけは捨てずに持っていこうと思っていること。
手紙を預かるなんて、面倒なことをよく続けたね、と今では思うこと。
それでも、その面倒のおかげで、今日ひとつの返事が町に出ていったこと。

短く書いて、封はしなかった。

便箋を二つ折りにして、空になりかけたクッキー缶に入れる。蓋を閉めると、雨音が少し遠くなった。

翌朝、業者が来る前に、私は窓際の試し書き机だけを軽トラックに積んだ。天板の輪じみも、引き出しのこすれも、そのままにした。

アーケードを抜けるころ、商店街の端のポストの前に、紫陽花の切手を貼った封筒が見えた気がして、私はブレーキを踏みそうになった。もちろん、もう集荷は済んでいて、そこにあるはずもなかった。

ただ、ないものが、たしかに一度そこにあったという感じだけが残った。

それで十分なのだと、その朝の光は、紙の匂いのする静けさで教えていた。