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短編

言いそびれたさよなら

駅の遺失物窓口で働く男は、落とし主のない「さよなら」を探しに来る女と出会う。

Genre
現代幻想
Series
単発
#喪失#駅#記憶#再会#遺失物

その駅の遺失物窓口には、傘や手袋や定期入れのほかに、ときどき説明のつかないものが持ち込まれた。

薄い金色の午後。高校生が改札脇で拾ったという、名前の書かれていない鍵。深夜の清掃員がホームの端で見つけた、片方だけの革靴。そして月に一度ほど、どこに分類していいのかわからない、目には見えるのに質量のないものが届く。

たとえば、封のされていないため息。
たとえば、角の丸い後悔。
たとえば、まだ誰にも渡されていない「ありがとう」。

私はそれらを、冗談のように見えて冗談ではない顔で、窓口のいちばん下の引き出しにしまうことにしていた。三十九歳。独身。駅務課の臨時職員になって七年目。毎日、同じ時間にシャッターを上げ、同じ手つきで記録帳を開く。書式にないものは欄外に書く。欄外は、案外、人生に似ている。

その女が最初に来たのは、梅雨に入る少し前の朝だった。

「遺失物の問い合わせをしたいんです」

窓口に立った彼女は、三十代の半ばくらいに見えた。紺色のカーディガンの袖口が少し擦れていて、傘を持つ手だけが濡れていた。顔立ちは整っているのに、何かをずっと考え続けている人特有の、輪郭のあいまいな静けさがあった。

「何をお探しですか」

私はいつもの調子で尋ねた。

彼女は少しだけためらってから言った。

「さよなら、です」

私は聞き返さなかった。この窓口では、聞き返さないほうがいいことがある。

「いつ頃、なくされましたか」

「去年の三月です。三番線のホームだったと思います」

「特徴はありますか」

彼女は目を伏せた。言葉を選ぶとき、人はみな少しずつ孤独になる。

「たぶん、短かったです。ちゃんとした文章じゃなくて」
「はい」
「でも、あれを言わなかったせいで、ずっとそこに残っている気がして」

私は記録帳の欄外を開いた。
日付、場所、内容。内容の欄に、私は「未発声のさよなら。去年三月。三番線」と記した。

「見つかった場合、ご連絡します」
「見つかること、あるんですか」
「たまに」

それは本当だった。誰かの言えなかった言葉が、何年か後に別の形で届くことはある。別の駅で、別の季節に、別の人のポケットから出てくることもある。

彼女は小さく頭を下げて帰っていった。傘の先から、水滴が床に二つ落ちた。私はそれを拭きながら、彼女の「去年の三月」という言い方に引っかかっていた。たいていの人は、月日を失くすとき、もっと曖昧になる。去年の春とか、その頃とか。彼女は三月と言った。そこにだけ、針のような正確さがあった。

翌週、彼女はまた来た。

「何か届いていませんか」

「まだです」

「そうですか」

それだけ言って、帰るかと思ったが、彼女は窓口の前に立ったまま、しばらく時計の針の音を聞いているような顔をしていた。

「変だと思いますよね」と彼女は言った。
「ここでは、あまり」
「婚約していた人がいたんです」

そういう話を、私は受け取る側の顔で聞くことに慣れていた。深く頷きすぎず、急かさず、記録しないことをちゃんと聞く。

「去年の三月、転勤で遠くへ行く日でした。喧嘩をしていて、見送りには行かないつもりだったのに、結局、駅まで行ったんです。でもホームに着いたときには、もうドアが閉まっていて」
「はい」
「私は何か言おうとしたんです。怒っていたわけじゃない、って。ちゃんと、気をつけて、って。帰ってきたら話そう、って。でも電車が動き出して、結局、口を開いただけで終わった」
「それで、そのあと」
「そのあと、向こうで事故があって」

彼女はそこで言葉を切った。私には続きを尋ねる資格がないと知っている。

「たぶん私は、あのホームに、自分の言えなかった一言を落としてきたんです」

私は、三番線のことを思い浮かべた。昼過ぎにはパンの匂いが流れてくる、古いホーム。ベンチの塗装は何度塗り直しても夏になると剥がれ始める。発車ベルは少し音程が低い。言葉のひとつくらい、落ちてもおかしくない気がした。

「見つかったら、お返しします」
「壊れていても?」
「たぶん、大丈夫です」

彼女はそのとき初めて笑った。笑顔というより、水面に一度だけ風が渡るみたいな表情だった。

その日から、私は三番線に気を配るようになった。巡回のついでにベンチの下を見る。終電後、ホームの端まで歩く。線路脇の砂利に光るものがないか探す。もちろん、探したから見つかるものではない。だが、探しているあいだだけ、人は少しだけ自分を保てる。

六月の終わり、清掃員の佐伯さんが、掃き集めたゴミの中から妙なものを持ってきた。

「これ、そっちじゃないか」

透明な切符くらいの大きさの、薄い膜のようなものだった。光にかざすと、内側にごく細い白い筋が一本だけ走っている。耳に近づけると、かすかな駅のアナウンスに混じって、何かが言いかけで止まっている気配がした。

「どこにありました」
「三番線のいちばん後ろ。排水溝の脇」

私は礼を言って、それを引き出しのいちばん奥にしまった。その夜、窓口を閉めたあと、私は一人でそれを机の上に置いた。扇風機の風に揺れ、膜は小さく震えた。耳を澄ますと、女とも男ともつかない息づかいのあとに、確かに「……よ」という一音だけが聞こえた。

それだけで胸の奥が妙に冷たくなった。見つかったのだ、と思った。あるいは、見つかってしまったのだ、と。

次の木曜日、彼女はいつもの時間に来た。私は窓口を閉め、「少しだけ、確認してほしいものがあります」と言って、事務室の小さな机に案内した。

膜をハンカチの上に置くと、彼女は息をのんだ。

「これ……」

「断定はできません。でも、三番線で見つかりました」

彼女は指先を伸ばしかけて、触れずに止めた。触れれば壊れるものに対する手つきだった。

「どうすれば、聞けますか」
「静かにしていれば、そのうち」

窓の外を貨物列車がゆっくり通り過ぎ、事務室の蛍光灯が一度だけ明滅した。膜はかすかに揺れた。私たちは何も言わずに待った。

やがて、そこから声がした。

ひどく小さく、しかし奇妙にまっすぐな声だった。

『……気をつけて』

それだけだった。

彼女は目を閉じた。泣いているようには見えなかった。実際、涙は落ちなかった。ただ、長いあいだ肩に乗せていた見えない荷物を、いったん床に置く人の呼吸をした。

「違う」と彼女は言った。

私は驚いて顔を上げた。

「違うんです。私が言いたかったのは、たぶんこれじゃない」
「そうですか」
「でも、これを言いたかったと思っていたんだと思います」

彼女はゆっくりと椅子に座り直した。

「ほんとうは、謝りたかったんです。最後まで意地を張っていたこと。向こうが悪いと決めつけていたこと。でも、そんなの、今さらきれいに言葉にできるはずがなくて。だからもっと無難な一言だったことにしていた。気をつけて、って」

私は黙って聞いた。窓の外で、ホームに入ってきた普通列車のブレーキが鳴った。

「人って、なくしたものを探しているみたいで、なくしてもいないものをでっちあげることがありますね」
「あります」
「じゃあ、私はずっと、見つからないほうの言葉を探してたんでしょうか」
「かもしれません」

彼女は少し笑った。その笑いには諦めではなく、ようやく自分の足で立ち直す人の頼りなさが混じっていた。

「これ、どうなりますか」
「一定期間、保管します。持ち主が確認できなければ」
「処分、ですか」
「いいえ。たぶん、薄くなって、どこかへ戻ります」

それは駅の決まりではなく、私の経験則だった。言葉は物よりも帰巣本能が強い。持ち主に返らないときは、その人の季節のどこかへ戻る。

彼女は立ち上がった。

「ありがとうございました」
「いえ」
「たぶん、もう来ません」

なぜか私は、少しだけさびしい気持ちになった。窓口の人間が抱いてはいけない種類の感情だった。

「ひとつだけ」と私は言った。
「はい」
「もし、本当に探していた言葉が見つかったら」
「ええ」
「今度は落とさないでください」

彼女は頷いた。その仕草は、来たときよりも年若く見えた。

夏の終わり、彼女から封書が届いた。差出人の名前だけがあり、住所はない。中には短い便箋が一枚。

「先日、彼の実家へ行ってきました。ご両親に、遅すぎる謝罪をしました。許されたわけではありません。でも、やっと、自分が何を言えなかったのか分かりました。駅に落としていたのは、さよならではなく、たぶん、赦してください、でした。拾ってくださって、ありがとうございました」

便箋には、それ以上何も書かれていなかった。私はしばらくそれを読み、引き出しの奥の膜を思い出した。確認しに行くと、ハンカチの上には何もなかった。窓は閉まっていたし、扇風機も止まっていた。消えたのではなく、帰ったのだと思った。

その日の夕方、三番線のホームに立った。西日でレールが細く光っていた。発車ベルの鳴る前の、ほんの数秒の静けさがある。その時間だけ、駅は巨大な耳になる。

私はふと、自分にも未返却の言葉があることに気づいた。若いころ、父が入院した夜、病室を出るときに言わなかった言葉。もう少し優しくできたはずの相手に、結局渡さなかった一言。人は案外、たくさんの言葉を発さないまま暮らしている。そのくせ、声にした言葉だけで人生ができているような顔をする。

電車が入ってきて、風が吹いた。ホームの白線の内側で、私は小さく息を吸った。

「遅くなって、すみません」

誰に向けたものでもない声だった。あるいは、誰に向けてもよかった。言葉は届く相手を選ぶ前に、まず持ち主の中で形になる。それだけのことに、私は四十年近くかかった。

電車のドアが開き、人が降り、人が乗った。何も特別なことは起きなかった。空は暮れていき、売店から焼きたての匂いが流れてきた。遠くで子どもが笑っていた。

それでも、私には十分だった。

遺失物窓口へ戻ると、机の上に新しい届け物が置かれていた。駅員の走り書きのメモが添えてある。

「四番線ベンチ下にて拾得。赤い布片のようなもの。微かに笑い声あり」

私はひとりで笑った。記録帳を開き、いつものように欄外に書く。

「未分類。一時保管」

欄外は今日も狭かったが、人生をしまっておくには、たぶんこれくらいがちょうどいいのだった。