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短編

失われた四〇三号室の鍵

古いアパートの管理を任された青年が、存在しないはずの四〇三号室から返却を求める声を聞き続ける話。

Genre
ホラー
Series
単発
#怪談#アパート#鍵#雨#記憶

雨の降る日は、鍵が増える。

祖母が亡くなってから、私は彼女の古いアパートの管理を引き継いだ。駅から十分ほど離れた、川沿いの細い道に建つ三階建ての木造で、名を「青葉荘」という。名前だけは若々しいが、外壁は湿気を吸って黒ずみ、共用廊下は昼でも薄暗かった。玄関脇の管理人箱には、真鍮の鍵がいくつもぶら下がっている。二〇一、二〇二、三〇一、三〇二。空室の札がついているものもある。

その中に、数字のほとんど消えた鍵が一本だけ混じっていた。

最初は三〇三かと思った。だが青葉荘に三〇三号室はない。三階は端から三〇一と三〇二だけで、階段の突き当たりは物置になっている。祖母から引き継いだ台帳にも、増改築の記録にも、三〇三より先の部屋番号は存在しなかった。

それでも、私はその鍵を捨てられず、いちばん端の釘に掛けた。形の古い、今では見ない細長い鍵だった。

雨の夜、その鍵だけが、時々かすかに揺れた。

はじめて声を聞いたのは、引き継ぎから五日目のことだ。夜の十時を過ぎ、共用灯の点検を終えて管理人箱を閉めようとしたとき、背後で女の声がした。

「返してください」

振り向くと、誰もいなかった。通路の先で非常灯が青白く光り、濡れた手すりに雨粒が並んでいるだけだった。空耳だろうと思った。だが管理人箱の扉に手を掛けると、今度はもっと近くで聞こえた。

「鍵を。四〇三の鍵を返してください」

喉がきゅっと縮んだ。四〇三、という数字が妙に生々しかったからだ。三階建てのアパートに四階の部屋番号はありえない。私は箱の中を見た。端の釘に掛かった、数字の消えた鍵が、さっきより大きく揺れていた。

翌日、古くからの住人である三〇二号室の長谷川さんに、それとなく尋ねてみた。長谷川さんは八十を越えているが、記憶はしっかりしている。

「四〇三? そんな部屋はないよ」

そう言って笑いかけ、それから急に口をつぐんだ。

「……でもね、昔、屋根裏を部屋にしようって話はあったんだよ。大家さんの息子さんが東京から戻ってきた頃かな。ずいぶん前さ。結局やめたけどね。階段をもう一つつけるとかで、大工も入ったけど、すぐに工事は止まった」

「どうして止まったんです」

「女の人が、いなくなったから」

長谷川さんはそこまで言って、もう忘れたよ、と新聞を広げた。その紙面が、乾いた音を立てた。

その夜も雨だった。

私は管理人箱の前に椅子を置き、件の鍵を見張ることにした。馬鹿らしいと思いながらも、誰かのいたずらで説明できるうちに説明したかった。十一時を回る頃、アパートはしんと静まり返り、遠くで電車の走る音だけが低く響いていた。

午前零時ちょうど、管理人箱の中で、ちり、と金属が鳴った。

数字の消えた鍵が、誰かに摘まれたように浮き上がり、釘から外れた。床に落ちるかと思ったが、落ちない。目に見えない糸に吊られるように、箱の外へゆっくり滑り出した。私は反射的に掴んだ。冷たい。雨水に漬けたような冷たさだった。

その瞬間、耳元で女が囁いた。

「まだそこにいるの」

私は鍵を放り出しかけたが、指が開かなかった。手の中で鍵が脈打っている。心臓ではなく、もう少し遅くて、湿った鼓動だった。

「開けて」

視線が勝手に階段へ引かれた。

三階まで上がると、突き当たりの物置の扉が半開きになっていた。ここには掃除道具と壊れた郵便受けしか入っていないはずだ。隙間から、灯りが漏れている。黄色く古い、白熱灯の色だった。青葉荘のどこにも今はそんな電球は使っていない。

私は鍵を握ったまま、扉を押した。

中は物置ではなかった。

短い廊下が奥へ伸び、その先にひとつ、ドアがあった。細長い乳白ガラスのはまった木のドアで、真鍮のプレートにははっきりと「403」と刻まれていた。廊下の壁紙は水を吸って膨らみ、天井は低く、息がしづらい。ここは三階の上ではなく、三階と天井の隙間に無理やり挟み込まれた空間のようだった。

ドアの前には、女物の革靴がきちんと揃えてあった。濡れていない。ついさっき脱いだみたいだった。

「遅い」

ドアの向こうから声がした。あの雨の声だ。怒っているというより、長く待ちすぎて擦り切れた響きだった。

「帰れないじゃない」

私は逃げるべきだと思った。だが、逃げるという考えだけが、廊下の湿った空気に吸い取られていく。代わりに、申し訳なさのような感情が胸に満ちてきた。会ったこともない誰かを、長く玄関先に立たせてしまったような、理不尽で、だが抗いにくい後ろめたさだった。

私は鍵穴に鍵を差し込んだ。するりと入った。長年使われていない錠ならもっと渋いはずなのに、内部は新しいみたいに滑らかだった。

回す寸前で、ドアの足元に紙片が落ちているのに気づいた。古い台帳の切れ端だった。祖母の字で、青いインクが滲んでいる。

『四〇三号 貸止め 鍵は預かること
本人が戻ってきても渡さないこと
返すと部屋が増える』

意味がわからなかった。ただ、その字の乱れだけは伝わった。祖母は几帳面な人だった。こんなふうに震えた筆跡を書くだろうか。

ドアの向こうで、かり、と何かが掻いた。

「その字、見つけたの」

声が少し笑った。

「おばあさん、最後まで数え方を間違えたままだったのね」

私はゆっくり息を呑んだ。

「数え方?」

「部屋は、借りる人の数だけ増えるのよ」

かり、かり。今度は複数の爪の音がした。ドア一枚向こうに、ひとりではない何かがいる気配が膨らんでいく。狭い廊下の壁が、外側から押されるようにきしみ始めた。

「ひとつ返すたび、ひとつ空くの。ほら、あなたも管理人でしょう」

乳白ガラスの向こうに影が映った。女ひとりの輪郭ではなかった。肩の高さの違う影が、いくつも重なり、互いの中で増えたり減ったりしていた。誰も身じろぎしていないのに、影だけが数を変えていく。

「空室が必要なの」

その言葉で、私はようやく理解した。青葉荘の空室が埋まらなかったのではない。埋まるたびに、別のどこかに、見えない部屋が増えていたのだ。祖母はその入口を封じるために鍵を預かっていた。そして私は、何も知らずにそれを管理人箱のいちばん目立つ場所へ掛け直した。

ドアノブが、ゆっくり下がった。

鍵を回せば終わる。開けてしまえば、待たせた相手を帰せるのかもしれない。そう思う自分がいた。それが私自身の考えなのか、湿った鼓動に混ざって流れ込んできたものなのか、もう判別できなかった。

私は祖母の走り書きを丸め、咄嗟に鍵穴へ押し込んだ。紙は半分ほどしか入らなかったが、その上から無理やり鍵を引き抜いた。すると錠の内部で何かが折れる乾いた音がした。

途端に、廊下の灯りが消えた。

闇の中で、ドアの向こうのものたちがいっせいに息をした。古い押入れを開けたときのような、冷えて湿った匂いが噴き出してくる。私は後ろも見ずに走った。肩が壁にぶつかり、何か柔らかいものを踏んだ気がしたが、確かめなかった。物置の扉を抜け、三階の廊下へ転がり出ると、背後でぱたりと扉が閉まった。

そこは、元の物置だった。モップとバケツしかない。だが足元に、きちんと揃えられた女物の革靴だけが残っていた。

翌朝、私は管理人箱から数字の消えた鍵を外し、川へ捨てようとした。ところが箱の中に、その鍵はもうなかった。代わりに、見覚えのない鍵が一本増えていた。小さな銀色の鍵で、白い札に「404」と書かれている。

私はそれを見なかったことにして、いちばん奥の引き出しへ押し込んだ。鍵は引き出しの中で、何度か小さく跳ねた。

それから雨の日だけ、入居希望の問い合わせが来るようになった。決まって、女性の声だ。落ち着いていて、礼儀正しい。

「空いているお部屋はありますか」

私は台帳を開き、実在する部屋番号だけを数える。二〇一、二〇二、三〇一、三〇二。何度数えても、それ以上はない。ないはずなのに、受話器の向こうでは、誰かがもう玄関を上がり、濡れた靴を脱いでいるような気配がする。

昨夜から、管理人箱の中でまた鍵が一本増えた。

今度は、札が付いていない。数字はこれから刻まれるのだと思う。雨はまだやまない。私は箱の扉を閉め、なるべく見ないようにしている。見なければ数えなくていい。数えなければ、増えていないのと同じだ。

けれど閉じた扉の向こうで、金属の触れ合う音が、前よりずっと賑やかになってきている。