短編
薄紅のインターホン
母の遺品整理のため古い団地に泊まり込んだ女は、毎晩同じ時刻に鳴るインターホンの向こうから、もういないはずの妹の声を聞く。
母の四十九日が済んでから、私はようやく団地の鍵を受け取った。
五階建ての古い建物で、外壁の塗装はところどころ剥がれ、共用廊下の手すりには潮を吹いたような白い粉が浮いていた。八月の終わりだというのに、建物の中だけは季節に置き去りにされたみたいに湿っていた。母は亡くなる直前まで、そこに一人で住んでいた。
遺品整理を請け負う業者に見積もりを頼んだが、貴重品や書類だけは先に家族で確認してほしいと言われた。兄は海外赴任中で、父とはとっくに縁が薄い。結局、ひとり娘みたいな顔をして、私が来るしかなかった。
玄関を開けたとたん、むっとする線香と古紙の匂いがした。
母は几帳面な人だったから、部屋の中は散らかっていない。居間には小さな仏壇、古い食器棚、座椅子。寝室には薄い夏布団がきれいに畳まれ、洗面所の鏡には曇り止めの跡が円く残っている。生前の母が、今しがた台所から出てきそうな整い方だった。
そのくせ、玄関のチェーンだけが、妙に新しかった。
銀色の鎖は近年取り替えたものらしく、ほかの金具より浮いて見えた。母は生前、電話で「最近物騒だから」と言っていた。私はその時、あまり真面目に聞かなかった。
日が暮れるまで書類を分け、引き出しを開け、通帳と保険証書と印鑑を見つけた。泊まるつもりはなかったのに、気づけば外は大雨で、帰る気力も失せていた。母の家で一晩くらい、と私は押し入れから客用布団を出した。
インターホンが鳴ったのは、午後八時十七分だった。
ぴんぽん、という単純な音ではない。ひと呼吸置いて、控えめに、ためらうように鳴る。
私は思わず時計を見た。ちょうど、八時十七分。
こんな時間に、と玄関の受話器を取る。画面のない古い型で、通話ボタンを押すとざらついたノイズが流れた。
「はい」
返事はない。
ただ、遠い場所で風の吹くような音がした。
「どなたですか」
数秒の沈黙のあと、かすれた声がした。
「……お姉ちゃん」
喉の奥を針でなぞられたみたいに、息が止まった。
聞き間違えるはずがない。その呼び方をするのは、もうこの世に一人もいない。
妹の千花は、七歳のときにいなくなった。
私は十歳で、あの日もこの団地にいた。夕方、母に頼まれてゴミを捨てに行くとき、千花がついてきたがった。うるさいから置いていく、と私は怒って、一度玄関の外へ出した。泣き声が廊下に響いたので、すぐ開けるつもりだった。けれど鍵を持っていないことに気づき、母に叱られるのが嫌で、私はしばらく黙っていた。
その数分のあいだに、千花はいなくなった。
団地じゅうを探しても見つからず、警察も来て、父も母も、やがて別の顔になった。私は「置いていった」のではなく「少し待たせた」だけだと何度も言い訳したが、その言葉は誰の救いにもならなかった。
受話器の向こうで、また声がした。
「開けて」
私は指先が冷えていくのを感じながら、ドアスコープを覗いた。
誰もいない。蛍光灯の切れかけた廊下が、薄青く伸びているだけだった。共用階段の踊り場の窓に、雨筋が白く光っていた。
受話器を戻すと、すぐまた鳴った。今度は二回。
ぴん、ぴん。
私はその夜、玄関の前に座椅子を置いて、鎖をかけたまま眠れずにいた。二十一分、二十四分、三十分。インターホンはそれきり鳴らなかった。
翌朝、隣の部屋の郵便受けに新聞を差していた老人に会った。母のことを知っている様子だったので、軽く会釈をすると、向こうから「娘さんか」と言った。
「お母さん、毎晩待っとったよ」
「何をですか」
「八時十七分。必ず玄関の前で」
私は何も言えなかった。
老人は、言ってしまってからまずかったと思ったらしく、視線をそらした。
「亡くなる少し前からは、耳が遠くなったのに、その時間の呼び鈴だけは聞こえるって」
「誰か、いたんですか」
「誰も。だから皆、気の毒でな」
その日、私は母の寝室の整理をした。箪笥の一番下から、大学ノートが十冊ほど出てきた。日記だった。几帳面な字で、買い物の値段や天気、体調が記され、そのなかに時々、短い一文が挟まっている。
八月二日 今日も八時十七分に鳴る。千花は雨の日の声をしていた。
八月十日 紗苗は覚えていないふりがうまい。責めても仕方がない。
八月二十七日 今日は「寒い」と言ったので、廊下に子ども用のカーディガンを置いた。朝には濡れて重くなっていた。
私の名前を見たとき、胃の奥がひどく縮んだ。
最後のノートの末尾には、震える字でこう書かれていた。
八時十七分になっても、すぐ開けてはいけない。
名前を呼んでも、泣いても、まず覗くこと。
足が見えなければ、千花ではない。
その晩、私は帰るつもりでいた。ノートを鞄に入れ、必要書類も揃え、あとは鍵を管理会社に返すだけだった。けれど午後から線のような雨が降り始め、気づけば空は母が嫌っていた鈍い薄紅に染まっていた。
玄関の時計が八時十六分を指す頃、部屋の空気は水槽の中のように重かった。
そして八時十七分、インターホンが鳴った。
私は受話器を取らなかった。
ぴんぽん。
ぴんぽん。
ぴんぽん。
やがて、ドアの向こうで小さく爪を立てるような音がした。
「お姉ちゃん」
一音ごとに、声が近づいてくる。受話器越しではなく、玄関板一枚の向こうから聞こえる響きだった。
「寒いよ」
私は喉を押さえた。母の日記を読んでから、頭の隅でずっと考えていたことがある。
千花が消えたとき、私は本当に「数分」しか待たせなかったのだろうか。
泣き声がうるさくて、私は布団に潜り、母が帰るまで眠ったふりをしていたのではなかったか。母に問い詰められたとき、私は都合のいいところだけを覚えていたのではないか。
「お姉ちゃん」
今度は、はっきりと懐かしい抑揚だった。甘えるときだけ語尾が少し伸びる、あの声。
「もういいよ」
何が、もういいのか。
許すという意味なのか。終わりにしようという意味なのか。あるいは、開けなくてもいいという意味なのか。
私はスコープを覗いた。
廊下は暗く、裸電球の下に、水たまりだけがあった。まるで、そこに小さな誰かが立っていた跡のように、左右にふたつ。
だが、足は見えなかった。
見えないのに、気配だけがあった。ドアのすぐ前に、身じろぎもせず、濡れた何かが立っている。覗き穴の向こうの空気が、こちらを覗き返しているような圧だった。
母の日記の最後の一文が、指先の感覚みたいに鮮明によみがえった。
足が見えなければ、千花ではない。
その時、郵便受けの差し込み口から、白いものが一枚、すっと滑り込んだ。
床に落ちたそれは、古びた子どもの名札だった。プラスチックの表面に、薄れてなお読める文字がある。
ちか
私は息を呑んだ。
次の瞬間、外のそれが、初めて少しだけ笑った。
「やっと見つけてくれた」
母の記録は、ここで途切れている。母は見つけられなかったのだ。名札を拾えず、足も見えず、それでも毎晩、呼び鈴だけを聞いていた。
私だけが、見つけてしまった。
玄関の向こうで、鎖がかすかに鳴った。
外から引かれたのではない。内側から、金具が自分で震えたのだ。新しく付け替えられた銀の鎖が、ねじれるように持ち上がり、受け金から半分外れた。
私は飛びついて押さえた。両手で、全体重をかけて。
「千花なら、名前を言って」
返事はすぐ来た。
「千花」
「好きだった歌は」
沈黙。
その沈黙の深さに、私は逆にはっきりした。これは記憶ではない。声だけを真似て、いちばん柔らかいところから入ってくる何かだ。私や母が抱え続けた悔いを、鍵穴みたいに使うものだ。
私は仏壇から線香の灰をひとつかみ持ってきて、名札の上に落とした。母が毎日手を合わせていた場所の匂いが、急に強くなる。
外の気配が、初めて苛立ったようにドアをかいた。
私は震えながら、名札を拾い、母の日記の最後のページに挟んだ。そして、そのノートごと台所のシンクへ持っていき、水を張った洗い桶に沈めた。紙がゆっくり色を変え、インクが滲む。
玄関の向こうで、泣く声がした。
子どもの声ではなかった。子どもの声を覚えているものの、もっと古く、乾いた泣き方だった。
それでも私は開けなかった。
夜明け前、いつのまにか雨は止んでいた。インターホンは鳴らず、廊下にも気配はない。郵便受けの内側には、水に濡れたみたいな細い手形が五本、白く残っていた。
私は朝いちばんで管理会社に連絡し、室内の撤去を急ぐよう頼んだ。仏壇は引き取ることにしたが、玄関のチェーンだけは外さず、そのままにしておいてほしいと伝えた。担当者は不思議そうにしたが、理由は言わなかった。
団地を出るとき、五階の共用廊下から、かすかに呼び鈴の音が聞こえた気がした。
八時十七分には、まだ早すぎる。
それでも私は振り返らなかった。振り返れば、たぶん、足のない誰かがいる。振り返らなければ、少なくとも母のしたことを、私は続けずに済む。
許されるとは思っていない。
ただ、開けないことだけが、今さら私に残された、最初で最後の正しさなのだと思う。