短編
空室の呼び鈴
母を亡くした春、古い団地に越した私の部屋には、向かいの空室から毎晩きまって呼び鈴が鳴る。
母が死んでから、私は雨の音にだけ敏感になった。
ほかの物音は平気だった。隣人の咳も、上階の椅子を引く音も、夜中に遠くを走る救急車のサイレンも、耳の表面を撫でるだけで通り過ぎていく。けれど雨だけは、どこにいても私の肩を軽く叩きつづけた。振り向けば、そこに母がいそうな気がした。
その春、私は職場に近い古い団地へ引っ越した。四階の端、406号室。廊下を挟んだ向かいは407号室で、郵便受けの口にだけ養生テープが貼られていた。名札は外されていて、日焼けした長方形だけが残っている。
鍵を渡してくれた管理人の大山さんは、部屋の説明を一通り終えたあと、思い出したように言った。
「夜中にね、たまに向かいの呼び鈴が鳴るんです」
「空室なのにですか」
「ええ。押す人がいるわけじゃないんですが」
そう言って、大山さんは妙に真面目な顔になった。
「もし鳴っても、出なくていいですよ。何もありませんから」
古い人が古い建物につきものの迷信を大事に抱えているのだろうと思った。私は軽く笑ってうなずいたが、大山さんは笑わなかった。
その夜、雨が降った。
引っ越しの段ボールを二つだけ開け、カーテンも仮のまま、私は床に座ってコンビニのおにぎりを食べた。新しい部屋にはまだ人の匂いがせず、洗剤と埃のあいだのような、頼りない空気だけがあった。眠るには静かすぎて、かえって目が冴えた。
午前一時を回ったころ、ぴん、と乾いた音が廊下に響いた。
呼び鈴の音だった。
一度だけではない。少し間を置いて、また、ぴん。
私は息を止めた。向かいの407号室の前を、誰かが悪戯で押しているのかもしれない。そう思って玄関の覗き穴に目を当てたが、廊下には誰もいなかった。非常灯の青白さの中で、407号室のドアだけが、濡れたように鈍く光っていた。
三度目の音が鳴ったとき、私は覗き穴から目を離した。出なくていい。そう言われたのを思い出したからだ。
だが、それから毎晩、雨の夜だけ呼び鈴は鳴るようになった。
ぴん、ぴん、と二回。必ず午前一時すぎ。廊下を見ても誰もいない。407号室の郵便受けは空のまま、ドアノブには指紋ひとつ増えない。なのに音だけが、誰かが遠慮がちに帰宅を告げるみたいに響いた。
一週間ほどたって、私は妙なことに気づいた。
部屋の中の物が、少しずつ減っているのだ。
最初は台所の布巾だった。洗って干したはずなのに見当たらない。次は読みかけの文庫本。次は、母の形見としてなんとなく持ってきた、古い折り畳み傘。どれも絶対に必要なものではなく、なくなってすぐ困るものでもなかったから、私は自分がどこかへ置き忘れたのだと思い込もうとした。
けれど傘がなくなった夜、私はもう一度、覗き穴に目を当てた。
407号室のドアノブに、見覚えのある傘が掛かっていた。
紺色の地に、持ち手だけが飴色にすり減った、母の傘だった。雨の日に母がよく持っていたものだ。事故の日も、それを持って出ていったはずだった。
廊下に出るのが怖かった。けれど、放っておけば朝にはなくなってしまう気がした。私はゆっくり玄関を開けた。雨の湿気が、階段室のほうから忍び寄ってきていた。
407号室の前に立つと、呼び鈴の下の壁紙が、そこだけわずかに黄ばんでいるのが見えた。人差し指ほどの丸い跡がいくつも重なって、長い時間、同じ場所を誰かが押しつづけたように見えた。
傘に手を伸ばしたとき、部屋の奥から音がした。
受話器を持ち上げるような、かすかな、こつん、という音。
私は思わずドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。
部屋は空だった。畳も家具もなく、窓際に古いカーテンレールだけが残っている。埃の匂いより先に、湿った土の匂いがした。玄関からまっすぐ奥へ、小さな水滴が点々と続いていた。誰かが濡れた傘を持って歩いたあとのように。
水滴の先に、壁付けのインターホンがあった。受話器は外れていない。それなのに、耳を澄ますと、微かな呼吸のようなノイズがしていた。
私は傘を胸に抱えたまま、その前に立った。
ノイズの向こうで、女の声がした。
「傘、持った?」
母の声だった。
喉がひどく乾いた。あの日の朝、私は玄関で靴を履きながら、同じ声を聞いたのだ。うるさいな、と答えて家を出た。振り返らなかった。それが母との最後の会話になった。
「今日は降るよ」
受話器の向こうで、母は静かに言った。
私は何も答えられなかった。返事をすれば、本当にそこにいると認めることになる気がしたし、黙っていれば、もう一度失う気がした。
しばらくして、ノイズが細くなった。切れる直前、母はひどく近い声で、しかし私ではない誰かに言うみたいに、こう言った。
「まだ、そっちなんだね」
受話器は沈黙した。
気づくと、背後で雨が強くなっていた。窓のないはずの部屋なのに、雨音だけが近かった。私は傘をインターホンの下に置いて、407号室を出た。自分の部屋に戻ると、玄関の床に、なくした布巾と文庫本がきちんと揃えて置かれていた。
それから呼び鈴は鳴らなくなった。
雨の夜が来ても、廊下はただ濡れた匂いを運ぶだけだった。私はようやく眠れるようになり、朝のコーヒーの味も戻った。母のことを思い出しても、胸の中で何かが急に立ち上がることはなくなった。
ひと月後、更新書類のために管理人室へ行った。
大山さんは書類を探しながら、何気なく言った。
「そういえば、407号室は落ち着きましたか」
「え?」
「最初は慣れませんよね。向かいの406号室がずっと空いていたでしょう」
私は笑いかけたまま、顔が動かなくなった。
「私の部屋は406です」
そう言うと、大山さんは首をかしげた。棚から古い入居者台帳を出し、指でなぞる。
「今月の入居は、407号室。ほら」
そこにはたしかに、私の名前が書かれていた。
帰りの階段で、自分の鍵を強く握りしめた。金属は冷たかった。四階まで上がり、いつもの廊下に出る。左が私の部屋、右が空室。そのはずだった。
けれど、表札のないドアの下に、小さな水の輪ができていた。
私は震える手で鍵を差し込んだ。するりと回ったのは、向かいのドアだった。