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短編

終電のあとに残る声

雨の駅で忘れられた傘の中から、言いそびれた「いってらっしゃい」を拾い上げる話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#短編#現代幻想#駅#雨#記憶

雨の日の忘れものには、ときどき声が残る。

それを最初に教えてくれたのは、改札係を三十年やっている野間さんだった。終電が出たあとの事務室で、彼は濡れた傘を一本ずつ開きながら、「骨を折るなよ。言葉が引っかかってることがあるから」と、ごく普通の注意みたいに言った。

冗談だと思ったけれど、その晩、私はビニール傘の内側から「ごめん、先に寝てて」という声が、ぽたりと落ちるのを聞いた。

水滴に混じるようにして、たしかに女の人の声だった。

野間さんは驚きもしなかった。小さな白い封筒を出して、そこに日付と路線名を書き、「忘れものは返すのが仕事だ」と言った。そのときから、雨の夜の忘れもの係は、私の役目になった。

声はたいてい短い。
「またね」
「気をつけて」
「着いたら連絡して」
そのどれもが、誰かの一日を閉じたり開いたりする、取るに足らないけれど欠けると困る種類の言葉だった。

ある六月の夕方、ひとりの女性が窓口に来た。

紺色のカーディガンの肩が少し濡れていて、髪の先から細い雫が落ちていた。年齢は三十代の半ばくらいだろうか。切符のことを訊く人の顔ではなく、病院で名前を呼ばれるのを待つ人の顔をしていた。

「あの」と彼女は言った。「こちらに、声の忘れものは届いていませんか」

私は驚かなかった。そういう場所で長く働くと、驚きは職務の邪魔になる。

「どんな声ですか」

彼女は少し考え、それから言った。

「父の『いってらっしゃい』です」

窓の外で、下り電車がホームに滑り込んだ。ブレーキの音が、会話の空白をなぞるように長く伸びた。

彼女の話は、短かった。駅前で小さな乾物屋をしていた父親が、去年から言葉をうまく出せなくなったこと。今は施設にいて、口を動かしても音にならないこと。子どものころから毎朝、店先を通って駅に向かうたび、「いってきます」と言えば、父は必ず「いってらっしゃい」と返したこと。

「最後の雨の日だけ、聞けなかったんです」

施設に移る朝、タクシーが早く来てしまった。荷物も多く、運転手も急かした。父は黄色い傘を持って立っていて、何か言おうとしたのに、彼女は「あとでね」とだけ言って戸を閉めたのだという。

「そのあと、父はほとんど喋れなくなりました。ばかみたいですけど、あの日の『いってらっしゃい』が、まだどこかで雨宿りしてる気がして」

私は受付票を一枚引き寄せ、遺失物の書式で彼女の言葉を書いた。
品名、声。
特徴、低め。少し笑っている。急がなくていい感じ。
拾得場所、不明。
拾得日時、昨年六月の雨の日。

彼女はその様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。

「本当に探してくれるんですか」

「忘れものなら」

そう答えると、私の声も、いつもより少しだけやわらかくなった気がした。

それから私は、雨のたびに傘をよく見るようになった。

黒いこうもり傘、骨の曲がったビニール傘、子ども用の青い傘。開くたび、別の誰かの一言が落ちた。「洗濯物」「鍵かけた?」「今日はカレー」。生活は案外、短文でできている。

けれど「いってらっしゃい」は見つからなかった。

七月の終わり、倉庫の奥に一本だけ、処分保留の傘が残っていた。黄色い子ども傘で、石突きが少し錆びていた。去年の札がついたまま、留め具だけが固く噛んでいる。

その晩の雨は静かで、駅全体が濡れた封筒みたいにしんなりしていた。終電が出たあと、私は傘を机の上に置き、時間をかけて留め具を外した。

ぱちり、と小さな音がした。

すぐには何も起こらなかった。傘の布の内側に、事務室の蛍光灯がぼんやり映っているだけだった。失敗したかと思ったとき、雨粒がひとつ、柄を伝って私の手の甲に落ちた。

それから、声がした。

「足もと、気をつけろ」

低くて、少し笑っていて、急がなくていい声だった。

間をおいて、もうひとつ。

「いってらっしゃい」

それは大きな声ではなかった。でも、長く閉まっていた店の引き戸が、胸の中で静かに開くような響きがあった。私はしばらく動けず、開いた傘を見ていた。野間さんならきっと、こういうときも平気な顔で封筒を出すのだろう。

私は白い封筒に、その二つの言葉を書き留めた。
返却待ち、と赤い判を押した。

翌日の夕方、彼女は来た。まるで、見つかる日を知っていたみたいに。

私は封筒を差し出し、それから黄色い傘も机の上に置いた。

「たぶん、これです」

彼女は傘に触れたが、すぐには開かなかった。親しい人の寝顔を見る前みたいに、少し息を整えてから、ゆっくりと留め具を外した。

開いた瞬間、事務室の空気がやわらいだ。

誰の耳にも聞こえるほどはっきりした声ではなかったのに、彼女は目を伏せて、ちゃんと受け取った顔をした。頬に涙は落ちなかった。ただ、長いこと持ち上がらなかったものが、ようやく元の高さに戻ったように見えた。

「……そういう言い方でした」

彼女は笑った。ほんの少しだけ、子どものころの顔になっていた。

傘を閉じる前に、彼女は小さく言った。

「いってきます」

すると、もう声は落ちなかったけれど、黄色い布の上を雨の名残みたいな光が一筋、すべって消えた。

彼女が帰ったあと、私は窓口のガラスを拭いた。夕方の電車がホームに入り、たくさんの人が乗って、たくさんの人が降りた。誰もが何かを言いそびれ、何かを受け取りそびれながら、それでも次の場所へ向かっていく。

その夜、忘れものの傘は一本もなかった。

けれど改札を閉めるころ、雨の上がったホームの向こうで、誰かがたしかに言った気がした。

いってらっしゃい。

駅というのは、電車だけでなく、そういう小さな言葉も発着させているのかもしれない。私は消灯前の事務室でひとりうなずき、返却済みの箱に、空になった封筒をそっとしまった。