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短編

郵便受けの向こう側

古いアパートに越した校正者のもとへ、翌朝の行動を言い当てる葉書が届き始め、やがて部屋が返事を待っていることを知る。

Genre
ホラー
Series
単発
#アパート#郵便受け#声#孤独#現代

三月の終わり、私は北向きの古いアパートに越した。

在宅で校正の仕事をしていると、部屋の静けさはそのまま家賃の安さになる。日当たりの悪さも、床のわずかな傾きも、壁紙の継ぎ目に浮いた黄ばみも、ひとりで暮らすには大した欠点ではなかった。むしろ、誰にも邪魔されないことのほうが大切だった。

ただ、玄関の内側についた郵便受けだけが妙に古かった。今どき珍しい差し込み式の金属蓋で、外にはもう共用ポストがあるから使う必要はないはずなのに、そこだけ磨かれたように銀色が残っていた。

大家は鍵を渡すとき、その郵便受けを見て、
「そこ、夜は開けないでね」
とだけ言った。

冗談めいた言い方でも、注意らしい説明でもなかった。こちらが理由を訊く暇もなく、大家は共用廊下の電球が切れかけていることや、ゴミ出しの日の話に移ってしまった。

最初の葉書が届いたのは、その翌朝だった。

切手も消印もない、生成り色の無地の葉書。宛名はなく、ただ青いインクで一行だけ書かれていた。

――今夜、あなたは帰宅しても「ただいま」を言わない。

妙な文だと思った。私は普段から独り言が少ない。帰宅時の挨拶など、言う日もあれば言わない日もある。わざわざ予言めいたことを書かれても、当たっても外れても気味が悪いだけだった。

その日は夕方まで雨で、校了前の原稿に追われ、二十二時過ぎに近所のコンビニへ出た。部屋へ戻ったとき、両手はレジ袋で塞がっていた。靴を脱ぎ、灯りをつけ、濡れた傘をたたんでから、私はふと葉書のことを思い出した。

たしかに「ただいま」は言っていなかった。

偶然だ、と口に出しかけて、やめた。玄関の金属蓋が、かすかに鳴った気がしたからだ。ぱちん、と爪で弾いたような小さな音だった。

私は覗かなかった。

二枚目は、次の朝に来た。

――午前二時十三分、郵便受けに指を入れないこと。

その夜、二時を過ぎたころ、私は目を覚ました。冷蔵庫のコンプレッサーが止み、部屋が急に深く静かになったせいだと思う。布団の中で時計を見る。二時十二分。

すぐに、玄関のほうで音がした。

こん、こん、と二度。控えめで、人を起こさないように遠慮したノックだった。つづけて、金属の蓋が内側からほんの少し持ち上がる音。誰かが外から、ではなく、そこに細いものを差し入れて探っているような、頼りない擦れ方だった。

私は起き上がり、暗い廊下を見た。玄関の下に細い影が揺れている。

二時十三分。

理由もなく、そこに指を差し込めば何に触れるのか確かめたくなった。好奇心というより、向こうから差し出される手順に従わなければならないような感覚だった。

だが、昼間の葉書の文字が頭に浮かび、私は台所へ行ってコップに水を注いだ。蛇口の音でごまかしているうちに、擦れる音は止んだ。

朝、三枚目の葉書があった。

――返事をしないでいてくれて、ありがとう。

そこで初めて、気味の悪さより先に、腹立たしさが来た。誰かがこちらを見ていて、試し、褒めている。その一方的な親しさが不快だった。私は葉書を持って大家の部屋を訪ねた。

大家は無地の紙面を見ると、顔色を変えた。だが内容を読んでも驚いた様子はなく、ため息をついて言った。

「前の人も、似たようなのをもらってた」

「誰かのいたずらですか」

「そう思って、廊下に防犯カメラもつけたのよ。でも何も映らなかった。葉書が入る時間だけ、ちょうど白く飛ぶの」

大家は言葉を選ぶように、唇を湿らせた。

「その人ね、最後のほう、部屋に入る前に必ず立ち止まるようになったの。誰かが先に中にいるみたいで、帰ってきた顔をしなくなった」

引っ越したのか、と私は訊いた。大家は首を振ったが、その先は言わなかった。

その夜、私は郵便受けの内側に養生テープを十文字に貼った。ついでに、金属蓋の隙間へ折りたたんだチラシを何枚か押し込んだ。これで何か入るなら、それは物理ではないと割り切れる、と思った。

二十三時過ぎ、仕事を終え、歯を磨き、寝室の灯りを消した。暗い部屋では冷蔵庫の唸りと遠い車の音だけが聞こえる。午前一時を回ったころ、玄関から、かさり、と紙の擦れる音がした。

私は息を殺して待った。

かさ、かさ、かさ。

外から差し込む音ではなかった。詰めたはずのチラシが、向こう側へ引かれていくような音。やがて金属蓋がごくゆっくり持ち上がり、隙間から空気が流れた。古い押し入れの奥を開けたときのような、乾いた埃の匂いがした。

それから、誰かが小さく言った。

「おかえり」

女とも男ともつかない、息の薄い声だった。けれど最後の二文字だけ、妙にはっきり私の声色に似ていた。

私は朝まで台所の床に座っていた。玄関から目を離せず、けれど近づくこともできなかった。

翌朝の葉書には、こうあった。

――あの声は、まだあなたではありません。

私はその文面を見て、震えた。脅し文句というより、訂正に近かったからだ。相手は順番を守っている。まだ違う、いずれそうなる、と静かに告げている。

その日から、私は部屋に帰っても挨拶をしなくなった。電話も短く切り上げた。仕事相手へのメールも必要最低限にした。声を出すこと自体が、玄関の向こうへ少しずつ送金しているように思えたからだ。

数日後、同僚から「最近、話すと間が長いね」と言われた。

私自身も気づいていた。言葉を出す前に、耳が先に待ってしまうのだ。自分の声が、ちゃんと自分の口から出たものか確認したくなる。部屋の中で咳をしても、ほんの半拍遅れて、玄関のあたりで同じ咳がした気がした。

七枚目の葉書には、短く一行だけ。

――空いた部屋は、最初に挨拶をくれた人の声を覚えます。

いつ、私は最初の挨拶をしたのだろうと思った。引っ越し初日か、それより前か。内見のとき、何気なく「失礼します」と言った気もする。そんなものまで数えられているのなら、もう遅いのかもしれなかった。

その夜は強い風が吹いた。共用廊下のどこかで窓が鳴り、建物全体が古い船のように軋んだ。停電が起きたのは午前零時を少し回ったころで、部屋の灯りも冷蔵庫の音も消え、一瞬で、世界から私の居場所が抜け落ちた。

暗闇の玄関で、郵便受けがひとりでに開いた。

見えないのに、そこだけが口のようにわかった。

向こうから、いくつもの声がした。

「ただいま」
「戻りました」
「こんばんは」
「遅くなってすみません」

どれも小さく、疲れていて、相手のいない部屋に向けた習慣の言葉だった。声は重ならず、一つずつ差し出され、蓋の裏に吸い込まれていく。最後に聞こえたのは、私が二日前にコンビニから帰ったとき、独り言みたいに漏らした「寒いな」だった。

ああ、ここは返事をする場所ではなく、返事を待ちながら溜めておく場所なのだ、と思った。誰にも届かなかった言葉が、空いた部屋に沈殿して、次の住人に順番を譲るまで息を潜めている。

暗闇の向こうで、私の声がした。

今度は、完全に私の声だった。

「おかえり」

喉がひきつった。返せば楽になる気がした。たった一言で済む。ここにいる、と認めるだけでいい。けれど私は唇を噛み、壁に背を押しつけ、停電が明けるまで何も言わなかった。

朝、玄関の内側に葉書はなかった。

代わりに、金属蓋の裏に小さな曇りが残っていた。昨夜、誰かがすぐ向こうで息をしていたみたいに。

それきり葉書は来なくなった。郵便受けも、二度と鳴らない。私はいまもその部屋に住んでいる。家賃は安いままだし、仕事も続いている。大家には、最近顔色がよくなったと言われた。

ただ、帰宅して玄関を開けるたび、私は少しだけ外に立ち止まるようになった。

部屋の中が静かすぎる夜ほど、先に誰かが言うのを待ってしまうからだ。

そして、ごくたまに、本当にごくたまに、鍵を抜く私の指先より先に、扉の向こうで私の声がする。

「おかえり」

私はまだ、一度も返事をしていない。