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短編

閉じた仕立て屋の留守電

取り壊し前の古い仕立て屋から見つかった留守番電話の声は、届かなかった言葉に小さな居場所を与えていく。

Genre
現代文学
Series
単発
#短編#現代#喪失#再生#街

春の取り壊しには、いつも少しだけ見当違いな明るさがある。

市の資料整理室に運び込まれてくるものは、たいてい、誰かが要らないと決めたあとでようやく名前を持つ。帳簿、写真、祭りのプログラム、古い看板、商店街の福引き券の束。私の仕事は、それらを分類して、保存するものと処分するものを分けることだった。未来のためと言えば聞こえはいいが、実際は、なくす順番を整えているような日もある。

四月の半ば、駅前再開発の区画から、ひと抱えほどの段ボールが届いた。側面に油性ペンで「みつば洋装店」とある。中には型紙の切れ端、メジャー、領収書の綴り、それから、黄ばんだ留守番電話機が入っていた。受話器のコードはねじれ、数字の一部は指の脂で鈍く光っていた。

「動くかな」

隣の机で台帳をつけていた沼田さんが言った。

「さあ。でもテープが入ってます」

私は裏蓋を開け、小さなカセットをつまみ上げた。ラベルには、青いボールペンでただ「店」とだけ書いてある。いかにも、急いで、とりあえずそう書いたという字だった。

資料整理室には、古い音声を確認するための再生機がある。観光課から回ってきた祭囃子の録音や、町内会長の挨拶なんかを聞くのに使う。私は昼休みの終わり、誰もいない確認ブースでそのカセットを差し込んだ。

機械の回る小さな音のあと、電子音が鳴った。

そして女の声がした。

『みつば洋装店です。ただいま席を外しております——』

そこまでは店の応答メッセージだった。少しノイズが入って、それから、別の声が続く。

『あ、もしもし、佐伯さん? 由里です。ボタン、見つかったの。あの紺のコートの、なくしたって言ってたやつ。糸が似てるのも買えたから、たぶん大丈夫。急がなくていいなら、来週持っていくね』

明るすぎない、けれど沈んでもいない声だった。相手に負担をかけないように、言葉をそっと置いていくような話し方。用件はそれだけで、切れる間際に小さく笑う気配があった。

次のメッセージも、その次も、同じ人だった。

『駅前の桜、もう咲いてたよ』
『この前の仮縫い、袖、ぴったりだった』
『熱は下がった? 返事いらないから、寝ててね』

どれも一分に満たない短い声だった。何か大きな事件を知らせるわけでも、劇的な別れを告げるわけでもない。ただ、暮らしの端で生まれた小さな報告が、丁寧に残されていた。

私はその日、最後まで聞けなかった。途中で停止ボタンを押したのは、他人の春をのぞき見している気がしたからでもあるし、のぞき見しているだけでは済まない気がしたからでもあった。

翌日、私はまた再生した。

それから数日かけて、全部を聞いた。

季節は春から初夏へ移っていく。由里という女の人は、何度も電話をかけた。ボタンのこと、雨のこと、商店街のパン屋が閉まること、自分の母親が入院したこと。佐伯さん、と呼びかける声はいつも一定で、親しすぎず、遠すぎなかった。恋人なのか、古い友人なのか、長い客なのか、それは分からない。

分かったのは、六月のある日を境に、佐伯さんが留守であり続けたことだけだった。

『この前、お店閉まってたね。定休日じゃないのに』

『大家さんに聞いたら、しばらく休むって……具合、悪いの?』

『返事いらないって言ったけど、ひとことだけでも、聞けたら安心する』

七月の終わり、由里さんの声は少しだけ遅くなった。言葉と言葉の間に、考えるためではなく、耐えるための空白が入るようになった。

『今日、店の前を通ったら、貼り紙がしてあった。閉店って』

そこで一度、息を吸う音がした。

『ちゃんと、お礼を言ってなかった。父の喪服も、私の就職のスーツも、あの水玉のワンピースも、ぜんぶ佐伯さんだったから』

しばらく無音が続き、テープの回転だけが耳についた。

『ボタン、まだ持ってるの。渡せなくて、ごめんね』

最後の言葉は、それまででいちばん小さかった。

テープはそこで終わっていた。

私は文字起こしの書式を開いたまま、しばらく入力できなかった。残すべき音声かどうか、判断に迷ったからではない。残すと決めたとたん、それが公的な資料の棚に並ぶことになるのが、妙に不釣り合いに思えたのだ。由里さんの声は、保存されるために話されたものではない。たぶん彼女は、留守番電話の小さなランプに向かって、ひとりで話し、ひとりで切っただけだ。

けれど、処分する箱に入れる想像は、もっとしっくりこなかった。

その週の金曜、私は昼休みにみつば洋装店のあった通りまで歩いた。もう建物はなく、白い工事壁が立っていた。壁際に、雑草に半分埋もれたプランターがひとつ残っている。土は乾ききっていたが、名残のように小さなミントが生きていた。

向かいには古い喫茶店があって、ガラス戸に「営業中」の札が斜めに下がっていた。なんとなく入り、ブレンドを頼むと、店の奥から白髪の女主人が出てきた。水を置く手つきが、長く同じことをしてきた人の静けさを持っていた。

「ここ、前は洋装店でしたよね」と私が言うと、女主人はうなずいた。

「ええ。佐伯さん、腕のいい人だった」

少し迷ってから、私は仕事のことと、留守番電話のテープが見つかったことを話した。女主人は驚かなかった。春の光の中で、昔のことが起き直るのを待っていたみたいに、ただ目を細めただけだった。

「由里ちゃんかもしれないね」

私は顔を上げた。

「知ってるんですか」

「うちによく来たの。若いころ、お店で直してもらった服を着てね。佐伯さん、病気して、急に店を閉めたでしょう。そのあとすぐ亡くなったのよ。由里ちゃん、何度か来てた。ボタンを渡しそびれたって、ずっと気にしてた」

カップの縁から、コーヒーの湯気が細く立った。

「今は?」

「さあ。でも、離れてはいないと思う。街ってね、出ていく人のほうが多くても、残る気配は案外減らないの」

喫茶店を出るころ、私はひとつ決めていた。

資料整理室に戻って、留守番電話の音声を保存対象にした。分類名は「駅前商店街関連音声資料」。それだけではあまりに乾いているので、備考欄に一行添えた。

「閉店した洋装店の留守電に残された私的音声。地域生活史を示す資料として保存。」

事務的で、頼りない文だった。けれど、公の書類に書けるのはその程度までだ。

そのあと、私は業務用の封筒ではなく、自分の便箋を一枚出した。勝手なことだと思いながら、みつば洋装店の留守番電話が資料として保存されたこと、テープの中に託された言葉は消えずに済んだこと、それだけを書いた。宛名は書けない。代わりに、喫茶店の女主人に預けることにした。

翌週、封筒はなくなっていた。女主人は何も言わず、私も聞かなかった。

五月が終わるころ、整理室の棚に新しいラベルが貼られた。酸を抜いた箱の中で、あの小さなカセットはほかの町の記録と同じ顔をして収まっている。祭りの音、議会の挨拶、閉店セールのチラシ、古い地図。そのどれもが、誰かにはただの過去で、誰かにはまだ終わっていない時間だ。

帰り道、私は取り壊しの済んだ通りをまた歩いた。工事壁のそばのプランターには、誰かが水をやったらしく、ミントの葉が少し増えていた。風が吹くと、触れてもいないのに匂いが立つ。

届かなかった言葉にも、居場所はあるのかもしれないと思う。

本人の耳に届くことだけが、言葉の役目ではない。そうでなければ、あの声はとっくに無かったことになっていたはずだ。返事をもらえなかった報告も、お礼を言いそびれた悔いも、渡せなかったボタンの行き場も、春の終わりに小さく残って、誰かの手で箱に収められる。そんなふうにしか守れないものがある。

私は工事壁の白さを見上げ、それから足元の緑を見た。

街は消えながら残る。

声も、たぶん同じだ。