短編
声のない家
祖母の遺品整理のため空き家に通う女は、契約を切ったはずの電話に自分宛ての留守電が残されていることに気づく。
祖母が死んでから三か月、私は駅から少し離れた古い住宅地にある家へ、週末ごとに通っていた。
売るには片づけが必要で、片づけるには誰かが中身を見なければならない。親戚は皆そう言ったが、実際に来るのは私だけだった。祖母は生前から付き合いが薄く、近所とも距離を置いていた。葬式の日でさえ、参列者は思ったより少なかった。
家は、長く息を止めていたものが、まだ完全には死んでいないような匂いがした。畳の湿気、樟脳、仏壇の灰、押し入れの古布、台所の奥に残った醤油の乾いた塩気。どの部屋も静かなのに、静けさが均一ではない。廊下は薄く、座敷は深く、階段の下だけがやけに耳に触った。
祖母は電話を嫌っていた。
携帯電話も持たず、古い黒電話を長く使っていたが、晩年にはプッシュ式の白い電話機に替わっていた。留守番電話機能つきの、小さな液晶がついたものだ。けれど祖母自身は録音された声を怖がって、ほとんど再生しなかったらしい。知らない人の声が家に残るのが嫌だ、と以前笑っていた。
その電話は玄関脇の小机に置かれていた。契約はすでに解約済みで、受話器を上げても何も鳴らない。ただ、液晶の赤いランプだけが点滅していた。
最初に見たときは、電源が残っているだけだと思った。けれど表示ははっきりと「1」を示していた。
再生ボタンを押すと、砂を噛むような雑音のあとに、女の声が流れた。
『もしもし、わたしです』
自分の声だった。
思わず停止を押した。胸の奥が、一拍だけ遅れて縮んだ。録音された自分の声を、自分で聞き違えたのだろうと思いたかった。けれど、もう一度再生しても、それはやはり私の声だった。少し掠れていて、電話越しの平たい響きになっているが、母にも友人にも似ていない、私自身の声。
『もしもし、わたしです。二階の押し入れ、右の奥はまだ開けないで』
そこでメッセージは切れた。
私はその日、まだ二階には上がっていなかった。
悪趣味ないたずらだと思った。親戚の誰かが、前に来たときに携帯で録音したのかもしれない。そう考えると少し腹が立ったが、親戚がそんな手の込んだ冗談をする顔も浮かばなかった。
二階の押し入れは、右奥だけ板戸がぴたりと閉じていた。左には古い座布団や毛布が乱雑に積んであるのに、右だけ妙に整っている。私はしばらく前で立ち尽くしたが、結局その日は開けなかった。気味が悪かったし、暑さのせいで頭が働かなかった。
次の週、家に入ると、また電話の赤いランプが点いていた。
「1」
再生する前から、耳の奥が冷えた。
『もしもし、わたしです。先週は正しかった。開けなくてよかった。仏壇の引き出しに鍵があります。小さいほうです』
今度は最後に、受話器を爪で叩くような、かり、かり、という音が入っていた。
私は仏壇の引き出しを探した。線香、数珠、古い写真、黒くなったライター、その下に小さな真鍮の鍵が一つあった。押し入れの鍵にしては細すぎる。試してみると、台所の奥、冷蔵庫の向こうに半分隠れるようにある低い戸棚に合った。
中には何も入っていなかった。奥板に紙が貼られているだけだった。黄ばんだ半紙に、祖母の字でこう書いてある。
「返事をしないこと」
「名を呼ばれても開けないこと」
「声は家の中に残る」
私は紙を剥がして捨てようとして、やめた。あまりに古く、脅し文句めいていて、かえって生活の手垢が感じられたからだ。祖母が物忘れをするようになって、自分に言い聞かせるために書いたものかもしれない。
そう自分を納得させたくて、庭に出て草を抜いた。陽はまだ高く、蝉が鳴いていたのに、家の中へ戻ると外よりも時刻が遅い気がした。
三週目、電話には二件の留守電が入っていた。
一件目は、無言。微かな息遣いだけ。
二件目は、また私の声だった。
『もしもし、わたしです。今夜は泊まらないで。雨戸を閉める前に、台所の戸棚の紙を元に戻して』
私はそこで、電話機のコンセントを抜いた。ついでに本体ごと小机から降ろし、新聞紙に包んで玄関の土間に置いた。これで終わりにしたかった。
その晩、帰る前に急な夕立が来た。古い家だから雨漏りが心配で、私は結局一時間ほど雨宿りをした。止むまで待つつもりが、湿った涼しさに身体が鈍って、座敷でうとうとした。目を閉じてはいない。眠ってもいない。ただ、柱時計の針音と、屋根を叩く雨と、遠くの車の水音を聞いていた。
そのとき、玄関で電話の再生音が鳴った。
び、とノイズが走る、あの短い起動音。
私はすぐに立てなかった。耳だけが先に玄関へ向いて、身体は座布団の上に置き去りになったみたいだった。土間に置いた、電源の抜けた電話機から、女の声が流れていた。
『もしもし』
一度、そこで切れた。
次に、少し近い場所から聞こえた。
『もしもし、わたしです』
玄関からではなかった。廊下の途中、階段の下あたりから聞こえた。
私は立ち上がり、逃げるように玄関へ行った。新聞紙は濡れておらず、電話機は土間にある。液晶は消えていた。なのに声だけが、家の奥へ奥へと移動していくように聞こえた。
『返事をしないで』
それは私の声だった。でも、私が言ったことのない調子だった。喉を押さえて、歯を食いしばって、無理に息だけで言葉を作ったような声。
『二階の右を、開けたでしょう』
私は開けていない。そう思った瞬間、二階で、板戸がこすれる音がした。
その日は鍵もかけずに家を飛び出した。駅までの道を濡れながら歩いて、何度も後ろを振り返ったが、誰も来なかった。
母に電話すると、祖母の家には行くなと言われた。売却の話は進めるから、あとは業者に任せればいい、と。私は留守電の話はしなかった。自分でもまだ、口に出した瞬間に安っぽくなる気がしていたし、安っぽくなったら本当に何かがこちらへ寄ってくるような気がした。
四週目は行かないつもりだった。だが、仕事中も、食事中も、風呂に入っていても、あの言葉だけが引っかかった。
開けたでしょう。
私は開けていない。なら、誰が。
曇り空の昼、私はもう一度家へ行った。門扉は前に閉めたまま、玄関も施錠したままだった。誰かが侵入した様子はない。にもかかわらず、二階の押し入れの右戸は、指二本ぶんだけ開いていた。
暗い隙間からは何も見えなかった。ただ、ひどく古い家の匂いとは別に、冷たい金属のような匂いがしていた。
私は下で見つけた小さな鍵を握ったまま、戸に手をかけた。
そのとき、一階の電話が鳴った。
解約したはずの、繋がっていない電話の、硬く乾いた呼び出し音だった。
一回、二回、三回。
出てはいけないと分かっていたのに、私は階段を駆け下りた。呼び出し音は、出なければ永遠に鳴り続けるように思えた。玄関脇の小机には、いつの間にか電話機が戻っていた。新聞紙もなく、白い本体がきちんと元の向きで置かれている。
四回目が鳴る前に、私は受話器を取ってしまった。
無音だった。
しかし無音は、空ではなかった。息を潜めたものが、受話器の向こうで耳を寄せている無音だった。
やがて、祖母の声がした。
『あんた、返事したの』
私は喉が閉じて何も言えなかった。
『だから今、あんたの声を探してる』
ぶつり、と切れた。
受話器の耳当ての奥から、すぐに留守電の再生音が鳴り始めた。止める暇もなく、私の声が流れる。
『もしもし、わたしです。もう玄関からは出られない。仏壇の前に座って、名前を言われても返事をしないで。最後まで、返事をしないで』
私はその通りにした。座敷に走り、仏壇の前に座った。線香の匂いはもう消えていたのに、灰の中から湿った煙の気配だけが立っていた。
やがて廊下を歩く音がした。
素足ではない。靴でもない。畳に触れるたび、紙をゆっくり折るような、ぱき、ぱき、という薄い音がする。
それは座敷の前で止まった。
襖の向こうにいるものは、しばらく黙っていた。こちらの息を数えているみたいだった。
それから、母の声で私を呼んだ。
次に、もう死んだ祖父の声で呼んだ。
小学校の担任、昔の恋人、名前も顔も忘れた同級生の声まで混じった。どれも少しずつ調子がずれていて、懐かしいはずなのに一つも胸に届かない。ただ、正しい鍵穴に似せて削られた偽物の鍵みたいに、耳の形だけをなぞっていく。
最後に、襖のすぐ向こうで、私自身の声が言った。
『返事して。そこにいるって、言って』
私は膝の上で爪を立て、口を閉じた。
長い沈黙のあと、襖の桟に、こつ、と軽い衝撃があった。試すようにもう一度。三度目には、木ではなく、向こう側の何か硬いものがじかに触れた音がした。
すると仏壇の引き出しが、ひとりでに少し開いた。
中に、見たことのない古いカセットテープが入っていた。白いラベルに、祖母の字で一行だけ書かれている。
「最後の声」
私は震える手でそれを取り出し、仏壇の脇にあった古いテープレコーダーへ入れた。電源が入るはずもないと思ったのに、再生ボタンは素直に沈み、すぐに祖母の声が流れた。
『これを聞いているのが家の者なら、よく黙ってくれたね』
襖の外の気配が、そこで初めて動きを止めた。
『声は残る。呼びかけに返した声も、叱った声も、笑った声も、この家は覚える。でもね、覚えた声は、だんだん中身をなくす。殻だけになる。殻は呼ぶ。自分が空っぽだと分かっているから、まだ中身のある声を欲しがる』
テープの向こうで、祖母が一度だけ咳をした。
『だから返事をしてはいけない。返事は戸を開ける。家は一度覚えた声を手放さないから』
私は襖のほうを見た。向こう側の気配は、ひどく静かだった。聞き入っているというより、古い約束を思い出して動けなくなっているような静けさだった。
『今から仏壇の下段、左の板を外しなさい。鈴を入れてある。それを鳴らして、誰でもない名前をひとつ呼びなさい。家が覚えていない名前を』
そこでテープは終わった。
私はすぐに板を探り、細い隙間に爪をかけて外した。奥に、小さな銀の鈴が一つ入っていた。ひどく冷たくて、触れた瞬間に指先の熱が吸われた。
誰でもない名前。
そんなものがあるだろうかと思った。けれど襖の向こうでは、また私の声が、今度はひどく低く掠れて、返事して、と囁いていた。時間がなかった。
私は鈴を握り、思いついた音を口にした。
「ナギ」
知っている誰の名前でもない。ただ、風がやむ寸前みたいな響きが欲しくて選んだ。
鈴を鳴らす。
ちりん、と鳴った音は、金属とは思えないほど柔らかく、けれど家中の柱を一本ずつ撫でていくように遠くまで伸びた。
襖の向こうで、何かが後ずさった。
廊下、階段、台所、玄関へと、ぱき、ぱき、ぱき、と紙の折れる音が遠ざかっていく。最後に玄関の戸が、誰にも触れられないまま、静かに開いて、閉まった。
それから家は、本当に静かになった。
私はしばらく動けなかったが、日が傾く前に玄関を出た。振り返ると、二階の窓に誰かが立っている気がした。けれど見上げるのをやめた。家に覚えられるのは、もうたくさんだった。
後日、売却は取りやめになった。母には、家の傷みが予想以上だったとだけ伝えた。解体の話も出たが、なぜか見積もりの段になると業者が来なくなる。住所を間違えた、車が故障した、日程を勘違いした。皆、つまらない理由だった。
今でも月に一度だけ、私はあの家へ行く。仏壇の灰を整え、雨戸を少し開け、鈴を一度だけ鳴らす。
そして、誰でもない名前を呼ぶ。
ナギでも、ユラでも、まだこの世の誰にも使われていないような、短くて空っぽの名前を。
家に、それを覚えさせるためだ。
このあいだ、帰り際に玄関の電話のランプが一度だけ点いた。私は見なかったことにして靴を履いた。もう受話器は取らない。もう返事はしない。
ただ、戸を閉める直前、背後で留守電の再生音が鳴り、かすかな祖母の声がした。
『そうそう。それでいい』
私は振り返らずに門を出た。
夕方の風の中で、自分の名前だけが、ひどく他人のものみたいに遠かった。