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短編

空室の声

隣室がずっと空室のはずの古いアパートで、男は毎晩、自分の名を呼ぶ留守番電話の声を聞く。

Genre
ホラー
Series
単発
#短編#怪談#賃貸#留守電#孤独

春の終わりに越してきたそのアパートは、駅から十分ほど歩いた川沿いにあった。二階建て、全六室。外壁は日焼けしたクリーム色で、階段の鉄骨には何度も塗り直した跡があった。大家は内見のとき、「静かなところですよ」と言った。実際、静かだった。静かすぎて、夜になると、流しに溜めた水が排水口へ落ちていく小さな音まで、部屋の真ん中で鳴っているように聞こえた。

私は二〇三号室に住み、右隣の二〇四号室は空いていた。郵便受けの名札は外され、ドアノブには内見用の青いリボンが結ばれたままだった。左隣は高齢の夫婦で、ほとんど顔を合わせない。つまり、私の生活の気配は、ほぼ私ひとりのものだった。

異変に気づいたのは、越して四日目の夜だった。

帰宅して冷蔵庫から缶ビールを出し、上着を椅子に掛けたとき、玄関脇に置かれた古い留守番電話機のランプが赤く点滅しているのが見えた。今どき珍しい固定電話つきの部屋で、私は入居以来一度も使っていない。契約上、番号は生きているが、誰にも知らせていなかった。

受話器を上げ、再生ボタンを押す。

ザーッという遠い波のようなノイズのあと、女の声がした。

『……まだ、いるの?』

それだけだった。

間違い電話だろうと思った。声は若くも老いてもおらず、平坦で、感情がうすい。けれど、聞いたあとに妙な感じが残った。「まだ、いるの?」という言い方が、電話口に向けたものではなく、部屋の中へ向けた囁きのように聞こえたからだ。

翌晩もランプは点滅していた。

『その部屋、寒いでしょう』

女はそう言った。ノイズは前夜より濃く、音声はところどころ掠れていた。私は受話器を置いたあと、なぜかカーテンを開けて隣室の窓を見た。二〇四号室は真っ暗だった。空室なのだから、当たり前だ。

三日目のメッセージは、私の名を呼んだ。

『慎一さん、そこにいないで』

心臓が一拍、遅れた。部屋を借りるとき、私は書類にフルネームを書いた。だが、それを知るのは管理会社と大家だけだ。悪趣味な悪戯だとしても、隣室が空なのに、誰がどこからかけてくるというのか。

翌朝、出勤前に大家へ電話した。留守番電話のこと、隣室のこと、以前の入居者のこと。大家は少し黙ってから、「二〇四はしばらく人が決まらなくてね」とだけ言った。以前住んでいたのは若い女性で、二年前に出ていったらしい。どこへ行ったかは知らない、とのことだった。妙に歯切れが悪かった。

会社でも気になって、昼休みに不動産情報を調べた。部屋は近隣相場より安く、写真は少ない。備考欄に「告知事項あり」とあるのを見つけたのは、古い掲載ページを辿ったときだった。今の募集ページからは消えていた。

私は仕事を早めに切り上げ、管理会社に寄った。若い担当者は端末を見ながら困ったように笑い、「ああ、その部屋ですか」と言った。

「二〇四号室で、以前、自殺未遂があったんです。未遂なので、厳密には事故物件として大げさに扱う必要はないんですが、しばらく空いてまして」

「未遂?」

「ええ。入居者の女性が、部屋の中で練炭を焚いて。発見が早かったので助かったそうですけど、そのまま退去されました」

私は胸のあたりに重いものが落ちるのを感じた。

「名前は」

「個人情報なので」

担当者は言いかけてやめ、「夜、何かありました?」と逆に訊いた。私は留守番電話のことを話さなかった。言葉にすると、それが現実の輪郭を得てしまいそうで嫌だった。

その夜、私は再生ボタンを押す前から、メッセージの内容を知っている気がした。

『隣じゃないよ』

女の声が、少し近かった。

『あなたの部屋だよ』

受話器の穴の向こうで、微かな咳が混じった。乾いた、喉を焼いたような咳だった。

ぞっとして、部屋の中を見回した。ベッド、テーブル、安物のカーテン、白い壁。どこも私が暮らし始めてからの痕跡しかない。けれど、台所へ行ったとき、換気扇の上に薄い煤の筋があるのに気づいた。前からあったのかもしれない。いや、前からあったとして、なぜ今まで見えなかったのだろう。

それから、夜ごとにメッセージは増えた。一件、二件、三件。

『押し入れの奥、見た?』

『窓を開けないで』

『わたし、ちゃんと出たはずなのに』

声は終始、取り乱してはいなかった。むしろ静かで、それがかえって恐ろしかった。何かから逃げ切れなかった人間だけが持つ、諦めに似た落ち着きがそこにはあった。

私は押し入れを調べた。何もない。壁紙を叩いてみても空洞はない。床板を見ても不自然な継ぎ目は見つからない。けれど、奥へ顔を近づけると、かすかな焦げ臭さがした。鼻を刺すような古い煙の匂い。私は思わず後ずさりし、その拍子に天袋の襖が少しずれた。

中に、小さなカセットレコーダーが入っていた。

埃をかぶり、電池の蓋が半開きになっている。持ち上げると驚くほど軽い。再生ボタンを押しても、もう動かなかった。だがラベルに、細い字で日付だけが書いてあった。二年前の、冬の日付。管理会社の話と合う。

私は電池を買ってきて入れ替え、深夜になってから再生した。

最初に入っていたのは、長い無音だった。時々、衣擦れと、遠くの車の音。十分ほど進んだところで、女の声がした。

『これを聞いてるの、たぶん管理会社の人ですよね』

淡々としている。留守番電話で聞いた声と同じだった。

『二〇四じゃなくて、二〇三です。最初に案内されたのは二〇四だったけど、臭いが抜けないからって、大家さんがこっちに通した。壁紙も床も替えたから大丈夫だって。だから、隣だと思ってる人がいるなら違います』

私は、停止ボタンを押そうとして指が動かなかった。

『あの夜、わたしは二〇三で寝ました。苦しくなって、窓まで行けなかった。起きたら病院で、それで終わったはずだった。でも、退院して荷物を取りに来たとき、まだ部屋にわたしがいた』

テープの向こうで、長く咳き込む音が続いた。

『鏡じゃなくて、電話機を見てた。赤いランプがついてて、わたしはそれを消したかった。なのに、受話器を持つわたしの手が、向こう側にもあって』

ノイズが膨らみ、しばらく声が潰れた。そのあと、はっきりとした一言が入っていた。

『次に入る人に、伝えて』

そこで録音は終わっていた。

私は天袋を見上げたまま、どれくらい座っていただろう。時計の針が一時を回ったころ、玄関脇で電子音が鳴った。留守番電話の新着ランプが点いたのだ。再生しなくてもいい。そう思った。だが、しないままでは朝までいられないことも分かっていた。

受話器を上げる。耳に当てる。ノイズの向こうで、女が言う。

『やっと見つけてくれた』

その声は、これまででいちばん近かった。まるで私の肩越しに、私と一緒に受話器へ耳を寄せているような距離だった。

『だから、もう隣を見ないで』

そこでメッセージは切れた。

私は反射的に隣室の壁を見た。薄い石膏ボード一枚隔てた向こうは空室のはずだ。息を止めると、何か聞こえる気がした。気のせいではなかった。爪でゆっくりと壁紙を引っかくような、かり、かり、という音。二度、三度。位置は低い。床すれすれだ。

私は後ずさり、背中を電話台にぶつけた。受話器が落ち、コードが揺れる。すると今度は、壁ではなく、私の部屋の押し入れの奥から同じ音がした。かり、かり。誰かが内側から、薄い板一枚を確かめるように。

逃げなければならないと思った。だが玄関へ向かう足が、押し入れの前で止まった。そこを開ければ終わる気がした。何が終わるのかは分からない。ただ、その音は、入れてくれと頼む音ではなかった。そこにいることを、こちらに思い出させるための音だった。

朝まで電気をつけ、私は部屋の隅で膝を抱えていた。音は明け方に止んだ。

翌日、会社を休んで荷物をまとめた。大家には退去するとだけ伝えた。違約金の話をされたが、まともに聞けなかった。段ボールを閉じ、最後にカセットレコーダーを持ち上げる。捨てるべきか迷い、結局、天袋に戻した。私が持ち出してはいけない気がした。

鍵を返し、アパートを出る。川沿いの道まで来て、一度だけ振り返った。二階の二〇三号室の窓に、白いカーテンが見えた。退去時にきちんと束ねてきたはずなのに、内側からわずかに開いている。その隙間に、黒い電話機の輪郭のようなものが見えた気がした。

それから二か月後、転送されてきた郵便の束に、一通だけ差出人のない封筒が混じっていた。中には何も入っていない。ただ、紙片が一枚、折りたたまれていた。

開くと、私の新しい住所と名前が、見覚えのない細い字で書かれていた。その下に、一行だけ。

「次は、そこなんですね」

私はその夜、引っ越してから一度も繋いでいなかった固定電話のコードを、暗い部屋の中で探してしまった。